だいぶん放置したのでリハビリを兼ねて別の話題を。

先日TwitterのTLで「長い道」という漫画が話題になっていた。これは「この世界の片隅で」などを書いたこうの史代の作品で、恐ろしいレベルのダメ人間の夫との生活を描いた漫画。今日はこの漫画の素晴らしさについて書こうと思う。Twitterで書いたことの焼き直しに近いけれど。

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小沢健二は、フリッパーズギターの歌詞で「分かり合えやしないってことだけを分かり合うのさ」と歌った。あるいは、村上春樹はその著作の中で、「理解というのは常に誤解の総体にすぎない」と書いた。あるいは、スガシカオは「君の涙の色はきっと鈍い僕には見えやしない」と歌った。

ぼくたちは、いつだってだれかを完全に理解することはできないし、だからぼくたちも絶対にだれかに理解されることもない。これはなんだかとても救いのないように思える話だけれど、端的に事実だ。仮に理解できた気になったとしても、理想的なコミュニケーションができるとは限らない。「いつでもぼくの舌は空回りして 言わなくていいことばかりが溢れ出す」し、善意は回り回ってすれ違ってだれかを決定的に傷つける。あるいは、それが「他者」の定義上の要請だとさえいえる。すべてを知ることができて、完璧なコミュニケーションが成立したら、それはすでに「他者」ですらなくなってしまう。

ひととひととは分かり合えない、という、その諦念から、他者への恐怖に飲み込まれてしまうこともあるだろう。たとえばTVシリーズエヴァンゲリオンの、人類補完計画のように。欠けた人の心を補完して、個人という単位をなくして、みんなを溶け合わせてしまう。そこにはもはや他者が存在しない。だから他者への恐怖も存在しない。心の壁、ATフィールドの存在しない世界。自我境界線の存在しない世界。

あるいは、その諦念から、空虚なポジティブ思考、思考停止へと至ることもあるだろう。巷に溢れている薄っぺらい愛の歌。恋の歌。ドラマ、小説。自己啓発本。そこには「がんばれば愛は実るよ!分かり合えるよ!コミュニケーションは成功するよ!」という無根拠で空寒いエールが溢れている。まあ、それがこの絶望や諦念の「処方箋」として効くのであれば、そういう薄っぺらい処方箋にも存在意義があるのかもしれない(が、他者が他者である以上、その処方箋は「詐欺」であり続けるし、後で見るようにその処方箋はとても脆弱なものだけれど)。

でも、ひととひととは分かり合えない、という諦念から、絶望の中でしか生まれない希望みたいなものを見出すこともできる。TVシリーズエヴァンゲリオンの集大成とも言えるEoEでシンジくんが辿り着いたのは、そういう場所だった。「好きだという言葉とともにある、人と人とは分かり合えるかもしれない、という希望」を前にして、「でもそれはまやかしなんだ。勝手な思い込みなんだ」と否定し、それでもアクロバティックにそれを肯定する。「ただ、また会いたいと思ったんだ」という言葉とともに。「また他人の恐怖が始まるんだよ」と言われてもなお。まやかしだと知りながら、嘘だと知りながら、敢えてそれを肯定するような気持ち。それは多分シンジくんが言っているように、「祈りみたいなもの」なのだと思う。

あるいは、小沢が歌う「流れ星 探すことにしよう もう子供じゃないならね」ということば。流れ星なんていう、あやふやであいまいでいつ流れるかわからないようなものを探すなんて、むしろ子供っぽい行為に思えるかもしれない。だけど、ぼくたちは、人間関係や生活というのが、とても脆弱なものであることを今や知っている。子供はそこでふてくされてしまう。でも、「ふてくされてばかりの10代を過ぎ」、もう子供じゃない今は、あいまいであやふやで脆弱な流れ星を、あえて探すことにしよう。そういう、あやふやなものにあやふやなままコミットするような強さ。そういえば、流れ星も「祈り」を捧げる対象だ。

そういう、「本当の恋」だとか、「完璧なコミュニケーション」はあり得ないという諦念とともに生まれるアクロバティックな「祈り」は、単純で後ろ盾のない、空虚なポジティブ思考とも違う。「ひととひととは分かり合えるはず」とか、「愛があれば大丈夫」みたいな、空虚なポジティブさは、ひとたびそれが虚であることに晒されたら脆くも崩れる性質のものだ。でも、嘘を嘘として、虚を虚として受け入れた上での祈りというのは、それが虚であることによって、むしろ強度を増すような性質のものだ。だって、それが虚であるということこそが祈りの源泉なのだから。

でも、そういう祈りみたいなものは、決して簡単に生まれるものではない。だって、嘘を嘘だと知りながらどうしてそれを信じることができるだろう。理性が要請するのは、「それが嘘、虚の類のものである」という認識であって、決してそこにコミットすることではない。嘘を嘘と知りながら嘘にコミットする、なんてことは、とてつもなく難しいことだ。そんなアクロバティックな祈りを維持するためには、とてつもない「強い気持ち、強い愛」が必要になってくる。

でも、ぼくは思うのだけれど、それは多分、ぼくたちがどうしようもなく誰かを好きになることだとか、どうしようもなく芸術のようなものを求めてしまう気持ちとか、そういったものと同質なものなのではないだろうか。

芸術なんて、生きていくうえで何の役にも立たない。あるいは、誰かを好きになったって、その誰かのことは理解できないし、誰かもぼくのことを理解してくれない。それなのに、ぼくたちはどうしようもなく芸術のようなものを求めてしまうし、どうしようもなくひとを好きになってしまう。芸術なんてあやふやで理性の対象外のものだし、理解し合えない他者を好きになるなんて、「ほとんど精神疾患のようなもの」だ。愛は地球どころかだれひとり救わないし救えない。それでもぼくたちはどうしようもなくそれを求めてしまう。

そして、そういった気持ちは、固い決意のような硬く静的な感情ではなくて、どうしようもなく続いて行く日々の中で、細かい機微の中で、生活にまみれた世界の中で、しなやかに動的に生まれ出ては消えて行くだけの気持ちなんじゃないだろうか。

それは、ただ前だけを向くポジティブ思考ではなく、後ろを向いたり、立ち止まったり、悲観にくれたり、疲れ切ったりするなかでギリギリのラインで生まれてくる、しなやかな強さなんじゃないだろうか。

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と、長々と話してきたそんな強さを、こんな無粋な言葉ではなく、救いのない日々の中で、ゆらゆらしながらもたしかに持ち続けるふたりの「偽物のおかしな恋」(単行本あとがきより)が描かれた素晴らしい漫画がこうの史代の「長い道」です。みんな読もう! 絶対に損はしないよ! そして、ぼくはこんな読み方をしたけれど、この漫画はもっともっといろんな読み方ができる懐の広さを持っているので、読む時にはできればぼくの記事なんて忘れて、誰にも何にも邪魔されない素晴らしい読書体験をしてください。

ぼくもいつか、こんな歌が歌えるようになりたい。

タイトルはちょっと煽り。他人の気持ちを勝手に代弁するな、という話から、セクシャル・ハラスメントとか、性暴力におけるセカンド・レイプの話に持って行けたらいいな、と思っている。


*ぼくらは人の気持ちを理解できない

ぼくたちは、人の気持ちが理解できない。これはじつは、いたって当然のことだ。でもこの当然のことさえもぼくらはなかなかわかり合えなかったりする。伊藤剛がtwitterでつぶやいていた(とぼくは記憶している)通り、フリッパーズギターの名フレーズ「わかりあえやしないってことだけをわかり合う」ことさえも難しいからこそ、あのフレーズは「甘美」なのだろう。あるいは、ぼくたちはわかりあえないからこそ、「人類補完計画」は進められた(いや、たしかにアニメの話だけどさ)。ぼくたちは相手の「真意」など、絶対に理解できない。たとえ相手と心が通じた、と思ったとしても、それはある種の「まやかし」でしかない。もちろん、それが悪いことだとぼくは少しも思っていない。そうではなくて、これは出発点でしかないのだろう。((このあたりの話は、早稲田文学U30で坂上秋成が「捏造の技法」というエッセイ(あれはエッセイとして読むのが正しい、でしょう)でとても丁寧に書いていたりする。))


*他人の気持ちを「解る」と思うほうがむしろ失礼なのではないか

ぼくはさっき、「人の真意など絶対に理解できないけど、それは別に悪いことではなくてそれが出発点なのだ」と言ったけれど、これを出発点としたとき、むしろ「解ると思う」ことのほうがトラブルを起こすのではないか。今度はラノベからの引用になるけれど、これを明示した例としてはたぶん「とらドラ!」の大河が挙げられるだろう。彼女が3巻で言うには「気に食わないのは、あんたが、私の内心を、勝手な妄想で決め付けたってところよ。穢した、ってことよ」。すごい。言い尽くされている。つまり、ぼくたちは相手の気持ち、真意をわかりあえない。だから、「相手がこう思っているに違ない」と、「妄想で決めつけ」て(というのもあまりにキツい言い方だと思うけどね)しまうというのは、相手の不可侵(不可知である、というのは不可侵であることの別の側面だろう)であるはずの内面を「犯して」「汚している」ことになりうる。

もちろん、これは「なりうる」だけであって、「かならずそうなる」わけではない。まるで小学校の道徳のような話だけど、「相手の気持ちを思いやる」ということは、大切なことだ。ただ、それは「ぼくが思う相手のきもち」であって、「相手の気持ちそのもの」ではない、ということを忘れると大変だよ、ということ。


*自分の欲求を他者の気持ちを借りて語る、ということ

では翻って。たまに見かける「彼/彼女は傷ついている(嫌な思いをしている)から、配慮してあげて」という話法について。

ここで「彼/彼女は傷ついている」と考えているのは、だれか。もちろん、発言者だ。そして、「彼/彼女は配慮してほしいと思っている」と考えているのも、発言者だ。

「【私は】彼/彼女が傷ついていると思う」「彼/彼女は配慮してほしいはずだと【私が思っている】」にも関わらず、この発言には「私がそう思っている」というメッセージがどこにも乗っていない。この発言においては「配慮してほしい」という欲求の担い手が発言者から「彼/彼女」へと委譲されている。ここには一種のごまかしが潜んでいる。

たぶん、本来ならはこうなのだろう。「彼/彼女は傷ついている(嫌な思いをしている)ように私は思う。私はそれが不快なので、あなたに配慮してほしいと思っている」。その状況を不快に思っているのは、「彼/彼女」ではなく、「私」である、ということ。配慮して欲しいと思っているのは、「彼/彼女」ではなく「私」である、ということ。自分の欲求を他者に仮託して語る、というのは、(仮託である時点で当然だが)やはり欺瞞だろう。

ぼくたちは、他人の気持ちや真意なんて絶対に理解できない。だから、彼/彼女が本当はどう思っているかなんて、絶対に解らない。だから、「彼/彼女は傷ついているから配慮してくれ」という話法はそもそも「成り立たない」のだ。


*次回予告

さて、ここまでが前置きで、ようやく本題のセクシャル・ハラスメントやセカンド・レイプの話につながるのだけれど、長くなったので続きは次回。次回は「被害者は傷ついています!」という「話法」を批判しつつも、それでもセクシャル・ハラスメントやセカンド・レイプが許されない理由というものに踏み込んでいきたい。

次回予告的に少しだけ、今回の話と重複する論点を先取りしておくと、「被害者は傷ついています!セクハラをやめてください!」と第三者が発言すること自体が、上に見たように「成り立たない」話法であり、それどころか他人の真意を「妄想で決めつけて」、当事者の語りを先取りすることで、当事者に沈黙を強いることになり得る、ということです。「傷ついている、やめてくれ」という告発は原理的に当事者が主語であることしかできない。勝手に代弁して勝手にやめてくれ、ということはできない。そういうことです。

で、次回の主軸は「だからこそハラスメントやセカンドレイプは批判しなきゃいけない」という話になります。乞うご期待。だれも期待しないかもだけど。

ものすごくお久しぶりのブログです。

この前友人たちとお酒を飲んでいるときに、ある女性が空いたグラスを片づけてくれた。そのときにぼくは「ありがとう、気がきくね」と言ったのだけれど、そしたら、別の女性にたしなめられて、いわく「『気がきくね』ってのは失礼なんじゃないか」と。詳しく聞いてみると、つまり、女性は気がきくべきだ(=それは女性の役割だ)という道徳が存在する以上、発言者(つまりこのばあいはぼく)にそのつもりがなくても、女性に向かって「気がきくね」と発言することには「女性はそうあるべきだね、うんうん」というメッセージが含まれてしまう、ということだった。

一応ぼくの名誉のために言っておくと、ぼくは結構飲み会で自分もサラダ取り分けたりするほうだと思うし、そういう種々のことを女性がやるべきだとは全く思っていないけれど、この指摘には「なるほどなぁ」と思って、単純に反省したのでした。

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で、そのあとのお話。「『気がきくね』のせいで女性同士で争い始めるんですよ」とさらに彼女は言っていたのだけれど、これもなかなか面白い話で、早い話が「ジェンダー・ロール」が生まれると、ひとは誰が一番そのジェンダー・ロールをうまくこなすことができるか、という競争を始める、という話でした。

これもなるほどなあ、という感じで、こういう光景、たしかによく見かけるんだよな。たとえば、「デートをうまくリードするのが男の役割」と言われれば、みんな頑張っちゃう。あるいは、「ミルク代、しっかり稼がないとね」って、「稼ぎ競争」に自ら参加していく男性たち。ぼくは自分が男性なのでこういう例になっちゃうけど、女性たちの間ではそれが「『気がきくね』を言ってもらう競争」になる、みたいなことなんだろうな。

もちろん、そういうのに自覚的だったりそれがいやだってひとはその競争から「降り」たり、ルールそのものに異を唱えたりすることもできるんだけど、降りることによってやっぱり不利益をこうむるのは自分なんだよね。そういう意味では、「そんな競争したくない!」っていう人も否応なくその競争に巻き込まれていく。別の言い方をすれば、たとえば「『気がきくね』競争」ではなくて「稼ぎ競争」に参加したい女性や、「稼ぎ競争」ではなくて「家庭内がどれだけ平和か競争」に参加したい男性さえも、「おまえは男だから稼ぎ競争ね」とか「おまえは女だから家庭競争ね」というように、強制的に参加する競争を決めつけられちゃう。それって、やっぱりちょっと不幸ですよね。

あるいは、もっと現実的でへヴィーな話をすると、「ちゃんと稼ぎ競争に参加したい!」って思ってる女性も、「育休切り」という理不尽にあったりする。「ちゃんと育児参加したい!」っていう男性も、現実的に育休が取れない。そういうのって、つまり「お前は女だからこの競争には参加しちゃだめ」「お前は男だからこの競争に参加しちゃだめ」っていうのが現実的な拘束力を持って形になったものだよね。

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そうなると、どうやったらそういう不幸な状態を止められるか、って話になると思うんだけど、ここでよくお題目として唱えられるのが「男女平等」。YES! 平等! 素晴らしい。男女が平等に生きられることそのものに反対するようなひとはさすがに居ないでしょう。誰も批判できない素晴らしい題目です。

でも、ぼくは思うのだけれど、たとえば「男性も女性並みに」とか「女性も男性並みに」というのは、ちょっと違うのじゃないだろうか。つまり、男性と女性を「同質」にしてしまうのは本当に「平等」なのか? という視点。

たまに「男性には男性の得意なことがあって女性には女性の得意なことがあるんだから」みたいなことを言うひとがいるけれど、そういうレベルのことをぼくは言っているのではなくて、そもそも問題の起源である「ジェンダー・ロール(性役割)」がどこから生まれているのか? ということ。

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つまり、「女性は○○(べし)」とか「男性は○○(べし)」という発想は、どこから生まれているかといえば、それはつまり「同質性」からですよね。

つまり、ほんとうなら女性ひとひとりひとりの望みや得意なことは違うのに、「家庭に入るのが女の幸せ」とか、「家庭に向いているのは男よりも女」とか言っちゃうのは、本当は多様なはずの個々人を同質な「女性」として見てしまうことで生まれている。

同じようなことが男性にも言えて、ほんとうなら個人個人の望みや能力は違うのに、「しっかり働いてお金を作るのが男の甲斐性」とか言われちゃう。これも、本当は多様なはずの個々人を同質な「男性」として扱う発想だよね。

本来多様なはずのものを「同質に」することが「ある集団ごとの役割」を生むわけだ。だから、男性と女性の差異をなくして「男女の同質性」を目指す方向は実は、新しい「役割」を生むだけなんだよね、きっと。つまり、たとえば、こういうこと。-----「仕事も育児も両方きちんとこなすのが『正しい』」。

ぼく自身は仕事と育児を両方こなす生き方ってのは素敵なことだと思うし、ぼくもそうありたいな、と思うけど、たとえば今の性規範で「気が利く女性」が「正しい女性」とされてしまう、裏を返せば「気が利かない女性」が非難の対象となるのと同じように、今度は「仕事と育児を両方できない人間」が非難の対象になっちゃうよね。たとえば、「仕事大好きだから仕事バリバリやりたいひと」と「家庭大好きで家庭のこと全部やりたいひと」の間にきちんとしたパートナーシップのある幸せなカップルがいたとき、このカップルは批判の対象になってしまうんじゃないかな。それって、「正しい役割を果たさないと非難される」今と何が違うんだろう?

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だからぼくは思うのだけれど、たぶん平等を実現するときには、「同質にすること」を目標にするんじゃなくて、「多様性を認めること」「異質を受け入れること」を目標にしたほうがいいんじゃいかな。つまり、今男女間に「仕事のしやすさ」に差があるのは、「男女が十分の同質になっていないから」と考えるのではなくて、「男性が同質とみなされているから」「女性が同質とみなされているから」と考えること。

「家庭に入りたい男性」がいてもいいし、「家庭も仕事もバランスよくやりたい男性」がいてもいいし、「仕事をバリバリやりたい男性」がいてもいい。同時に、「家庭に入りたい女性」がいてもいいし、「家庭も仕事もバランス良くやりたい女性」がいてもいいし、「仕事をバリバリやりたい女性」がいてもいい。そうやって「男性の同質性」と「女性の同質性」を解体することによって、男性/女性の区別が意味をなさなくなっていく。そうしたら結果的に、男女間の平等は生まれるんじゃないか。もちろん、それを実現するためには、多様な生き方を許容する社会のデザインになってなければいけないわけで、それを実現するためにどうするか、という大きな大きな問題は残るのだけれど。ただ、考え方として。

もし、「○○として正しい生き方」というのがなくなり、多様な生き方が許容されるようになった時には、「家庭に入ってたい」ひとは「外で稼いでくれるひと」とパートナーシップを結べばいいし、「バランスよくやりたい」ひとは同じくバランスよくやりたいひととパートナーシップを結んで課題をシェアすればいいし、っていう風通しのいい社会になるんじゃないだろうか。ぼくは、そんな世界で家族とともに暮らせたら幸せだし、そんな世界で働けたら幸せだなー、と思う。

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最後にちょっと本筋と関係ないけど言っておきたいことを何点か。

ぼくは今回便宜上家庭と仕事を二分したけれど、これも、じつはそんなに自明な区別じゃないんだよね。あと、家庭を「前提」に話してるけど、もちろん家庭を前提としない生活という多様性も認められていいはずだし。

あと、こうやって社会の仕組みについて発言すると、「社会のせいにしてないで自分のできることやったら?」って言うひともいるけど、「今の仕組み、よくないよね、こうしたほうがいいよね」と言うことと「それでもすぐには変わらないこの仕組みの中で自分なりに自分が幸せになれるようにベストを尽くす」ってのは両立するし、ぼくはぼくなりに今の社会の中で自分が幸せになれるように頑張ってるので大きなお世話です。

「すぐには変わらない大きな仕組みには文句を言わずそれをア・プリオリな環境として生きていく」ってのは「大人」じゃなくて「奴隷根性」って言うんだよ。ほんとに大人ならば、「社会を作る」ほうに回ろうよ。一緒に。それはそんなに大それたことじゃなくて、「こうなったらいいよね」って発言することも十分に「社会的」な行為だと思うんだ。

友人がほしがっていたので萃夢想bot作りました。

東方萃夢想とは、上海アリス幻樂団黄昏フロンティアが共同制作した弾幕アクションゲームです

botはhttps://twitter.com/suimusou_botで動いています。なお、作者の@shinpei0213は萃夢想プレイヤーではありません。

5分に一回タイムラインを見に行き、@suimusou_bot 宛てに「対戦相手募集」を含むとメンションがあれば「.@user さんが対戦相手を募集しています http://元発言へのURL」とつぶやくだけのbotです。

要望やバグ報告等は@shinpei0213 宛てにお願いします。気が向けば対応します。

どうも。猫型です。小沢健二の全国ツアー、続々と情報が出てきてて寝てもいられない感じですね。

ええと、前の記事で「オーディオアンプとスピーカーが欲しい」と書いたんですが、アンプ職人の友人がオーディオアンプとスピーカーを譲ってくれました。なんというか、すみません、ありがとうございます。

以前使っていたのはBOSEのWaveRadio/CDで(リンク先は現在のモデル、wave music system)、これはお値段もそこそこ張りますがかなり良い音でぼくを約8年間くらい楽しませてくれました。ぼくが使う前は父が使っていたので、もう10年選手ですね。今は彼女の部屋へと場所を移してなかなか良い音を聴かせてくれてます。

そして今使っているのは友人の手作りの真空管アンプと手作りのスピーカー。ぼくはちょっとあまりオーディオに詳しくないので、詳しいスペックはよくわかりませんが、友人がコメント欄で詳細を教えてくれるかもしれません。そのときは「神!」とたたえようと思います。ちなみに今回のエントリのタイトルは真空管(tube)から連想しただけです。flipper's guitarや小沢ファンのひと(いやぼくもなんだけどさ)には先に謝っておきます。ごめんなさい。

で、インプレなんですが、さっきも言ったとおりぼくはあんまりオーディオには詳しくないので、印象論でいきます。こういうのはそれなりの音量で聴くものだよね。

BOSEのやつと今のやつを比べると一目瞭然(一耳瞭然?)なのですが、やはりBOSEのやつはすごく「いじられた音」なんだなー、って実感しますね。

とくに顕著なのがベースで、BOSEのやつはすごくベースが太くて、深夜に聴くのをちょっとためらっちゃうレベルでベースがぶんぶん言ってました。それに比べると今のやつはバランスがいいですね。これは好みの問題でしょうが、ぼくは今のほうが気に入っています。

あとは、これって真空管とトランジスタの違いなのかなーと思うんですが、BOSEのと比べると音がやわらかいというか、手触りがなめらかな感じですね。ひとつひとつの音像ははっきりしてるんだけど、なんかやわらかく感じる。今BOSEのやつ聴くと、ちょっとカリカリして聞こえます。シャープというか、手触りがざらざらしているというか。このへんはシンバルの音とかストリングスの音に顕著に差が出てるように感じます。理屈の上ではトランジスタのほうがいい音が鳴る、という話を知り合いの電気技師のひとから聞いたことがありますが、こうやって聞き比べてみると真空管アンプが好まれるのも納得です。それなりの音量まで上げたときに今のやつのほうが耳が疲れない感じですね。BOSEのはちょっと鋭すぎるというか。

ただ、上の二点はどっちも好みの問題というか、ジャンルの問題というか、ダンス系とか好きなひとはBOSEので聴いたほうがいいかもですね。ぼくは部屋であまりダンス系とか聴かないので、べつにいいです。部屋ではあまりデジデジしたやつ聴かないし、どちらかというとアナログ系の音のものをよく聴くので、これ最高です。あと、BOSEのやつはBOSEのキャラクターが強すぎて最近飽きてきてたので(なに聴いてもBOSEの音なんだもん・笑)、こういう素直な音はうれしいです。ちょっといろいろスピーカーためしてみたくなるなぁ。

これ、クラシック、それも交響曲とかをそれなりの音量で聴きたくなりますね。BOSEのときはあんまりそういう欲求を喚起しなかったんだけど。こんどなんか借りてこようかなあ。

あけましておめでとうございます。新年早々結膜炎でしんどいです。今年もよろしくおねがいします(おざなり)。2010年と言ったらみなさんにとってどんな年ですか? 宇宙の旅? ぼくにとっては「NASAが作り出したミュージックマシーンが なんか全部ぶっ壊れた」年です。あのころすごく「未来感」があった2010年に生きていると考えるとちょっとすごいですね。

というわけで2010年最初の記事は物欲ログ。略してブツログシリーズ。

AMT Electronics M1
fender系のいいアンプ持ってるから、たぶん持ってても使わないんだけど。マーシャル系の音が出せるものも手元に置きたいっていう欲望。それだけ。でももしあったらたぶん宅録のときに使うと思う。
Guitar Rig Kontrol
宅録でしか使わないんだったらこれのほうがほしい。ただ、やっぱり生でやるのが一番好きで、自分にとって宅録はバンドのデモ用くらいの位置づけなので、宅録のためにここまで高いものを買う勇気が出ない。同人音楽など、他人に聴いてもらうようなものでギター入れることになったら買ってしまいそうで怖い。
Pod X3 Live
こいつだったら宅録だけじゃなくてライブでも使えるなー。と思うんだけど、ぼくはアンプやエフェクタetc.はアナログ派なので、結局買っても宅録にしか使わないと思う。ギターリグと迷うところだけど、Podのほうが直感的な感じがするんだよなー。
SONAR
説明いらねーだろもうこれ。ワンランク上のDAWがほしい。
オーディオアンプ + スピーカ
今はBOSEのWave Music Systemの古いやつ(大学の合格祝いで父がくれた)使ってて、これはこれですげー音がいいんだけど、ちょっと低域が強調されすぎてて、それはそれで気持ちいいんだけどやっぱり素直なキャラクターの再生環境がほしい。
買うとしたらPodだな。買うとしたらPodだけど高いよ。高い。バンドのメンバーに聴かせるだけのデモのために5万はちょっと高いなー。でもほしいなー。おもちゃとしてもほしいなー。おもちゃに5万ってちょっと高すぎるよなー。

オーディオアンプ+スピーカは手作りアンプの会の会員の父に格安で作ってもらうという手もあるのだった。これが一番現実的だな。

だれかお年玉として上記のどれかぼくにください。

今日でゼロ年代が終わり、明日から10年代が始まる。

ゼロ年代のぼくをふりかえると、高校生、大学生、社会人と変化してきているのだけれど、「中身」はそんなに変化していないように思う。

思えば、2001年にアメリカで同時多発テロが起こり、高校が作っていた雑誌でぼくはその同時多発テロと文化相対主義についての文章を書いた。大学に入ってからもぼくの問題意識はそこにあって、大学の卒論も同時多発テロについて論じるところを出発点にしている。

あと、ゼロ年代のはじめのころ、ぼくはICQなどでネットの友人とやりとりをしていた。まじめな話や、くだらない話に熱中して、そのまま寝落ちなんてこともあった。そしてゼロ年代のおわり頃、昨日はツイッターをひらいたまま寝落ちしたのだった。思えばICQで仲良くしていた友人の一部とは、いまだにツイッターでつるんでいたりもする。やはりゼロ年代を通じてあまりぼく自身は変わっていないようだ。変化したのは、ツールと環境だけ。変わらない関係や問題意識を約10年間持ち続けていながら、環境やツールには隔世の感があるのをかんがえると、すこしだけめまいがする。

でも、じつは、ゼロ年代はぼくにひとつの大きな変化を生んでいて、それは今はぼくが自分自身を「許してる」ということだと思う。ゼロ年代のはじめのころ、他人を見下して他人を貶すことでしかぼくは自分に価値を見い出せなかった。えらくプライドが高くて攻撃的だったのだけど、当時のぼくを知るひとは口を揃えて最近のぼくを「丸くなった」と言う。それはたぶんなにより、ぼくが自分に価値を認めるために他人をくさす必要がなくなったからだろうと思う(しかしいまだに口は悪い)。

ぼくがそんなふうに自分を受け入れることができるようになったのは、なによりもゼロ年代のほぼ半分を一緒に過ごしてくれた恋人が、ぼくのことを受け入れてくれているからだと思う。今の恋人という回路を迂回してようやく、ぼくはぼくを許すことができている。その回路を作ることができたゼロ年代は、なんだかんだと言ってぼくにとってとても特別な年代だったと思う。

ぼくと仲良くしてくれるみんな、ゼロ年代はたいへんお世話になりました。10年代もよろしくおねがいします。

最近webが(というかぼくの観測範囲が)性犯罪に対する自衛がらみで盛り上がってる。簡単にまとめると、「最近のおなごはミニスカートとか履いてるし暗い道を平気でひとりで歩くし、これじゃ犯されたって文句言えないわよ!」みたいな、ちょっと何をいってるのかわからないですねって人の意見を発端に、いろんなひとが「いやいや、それおかしいだろ」って言ったり「これおかしいとか言ってるけど、自衛を説くことのなにがいけないの」みたいな話になってる。

正直この話については、被害者のみが「夜道を出歩くな」だとか「ミニスカート履くな」というように行動を制限され、加害者の行為は「なくせない」と「容認」されるその非対称性、おかしいよねってことでFAなので、これがわからないひとは本当に頭が悪いとしか言いようがない。

これ、ほんと単純な話だよ。「性犯罪が存在する→その被害者(になりうるひと)の行動を制限しましょう」って、おかしいでしょ? 制限されるべきは加害者の行動の方なはずでしょ本来は。まさか「他人を強姦する自由は制限されるべきではない」なんてことを言いますまい?

たまに「鍵をかけないとかアホすぎるって話だろ」みたいなこと言うけど、それとこれとは話が違うの。家に鍵をかけることによって鍵をかけた人の何が制限されるの? むしろ適切なたとえとしては、「店頭に商品を陳列していると万引きにあう可能性があるので、コンビニは商品を陳列しないようにすべき」とか、「商品を魅力的に見せるようなCMを流すとその商品は万引きにあう可能性があるので、CMは自粛すべき」とかそういう話なの(例に商品を使ったけど、べつにこれ「女性は商品である」という主張じゃないからね。念のため)。これならトンデモっぷりがよくわかるでしょ。だれも「鍵かけるな」なんて言ってなくて、「いやいや、普通に生活を営ませてくださいよ」って言ってるの。

働いてたら、帰りに夜道を一人で歩くことをやめることはできないし(中高生だって部活終わって帰る時間とか、今の季節だったら真っ暗だよもう)、服装くらい自由にさせろよ。

自衛するに越したことはないってのはそのとおりだけど、「行動を制限しろ」ってのは自衛じゃなくて「抑圧」っていうの。わかるかなこの違い。

で、こういうこと言うと「じゃあ男の行動が制限されるのはいいんですか?ダブルスタンダードだ!」みたいなことを言うやつが出てくるけど、もういい加減にしろよ。「男の行動」を制限しろなんていってないの。「加害する権利なんてものは最初から存在しない」って言ってるの。

何度も言うけど、これってほんとにシンプルな話で、加害者と被害者がいるときに、加害者の行為は「そこにあるもの」として容認されて(男はケモノだから、とか、性犯罪をなくすことはできないからそれは「そこにあるもの」として考えなきゃならないとか)、被害者の行動は「制限されるべきもの」であるって認識はどー考えたっておかしいでしょって話なの。男の権利だとか女の権利とかそういうレベルの話じゃなくて、「加害する自由」と「被害者が自由に日常生活を送ること」、制限されるべきはどっち?って話。ていうかそもそも最初から「加害する自由」なんてないんだけどさ。

だれも「自衛は大切である」ってことに対して「いや、大切じゃないよ」なんて言ってないの。「『あえて』『ことさらに』自衛しろと『説くこと』」が抑圧になってるって話なの。

webで性犯罪の自衛について説いてるひとは、もういい加減それを自分の恋人や娘にではなく「webで」「不特定多数に」「規範として」表明していることの意味にそろそろ気づこうよ。

以下12/11追記。

かなり誤解を生む表現になっているので。一部削除しました(delしてます)。最後の段落については、このような「規範」を公的に発言することは、私的な領域での抑圧を構造的に強化しているよね、それはまずいよねって趣旨です。当然ぼくは恋人や娘に対して「スカート履くな」だの「夜一人で出歩くな」だの言うことは(私的領域での)抑圧だと思っています。

ちなみに、恥を忍んで自分の欲望について告白しておけば、ぼくはどちらかというと恋人に対して抑圧的にふるまいがちです。そのたびに自分の欲望については客観視しようとしているのですが、完全になくすことはできていません(完全になくすことができている人なんているのだろうか...?)。

ただ、ぼくはいつも自分の恋人との間になにか問題が起こったときには、きちんとコミュニケーションをして、二者間の問題として毎回なるべくどちらかが抑圧されないように解決をはかっていて、そういう意味で「二者間の抑圧の問題は *その二者間によって* 双方が合意できる状態にもっていくことができる」と考えています。構造的な問題も、二者間の問題になったときには「その二者間特有の問題」となり、「その二者間特有の解決方法」で解決できる、とは認識しています(もちろん、そのためにはその背後にどういう「権力関係があるのか」に自覚的になる必要がありますが)。

ただ、そういう認識が、私的関係での抑圧があたかも問題でないかのようにとらえられる言葉に結びついたところに、ぼく自身がぼくの私的関係において「構造的な抑圧」の抑圧者であるということから逃げたい気持ちが働いていないと言えばたぶん嘘になるでしょう。そういう意味で、今回のエントリはぼくの「相手を支配したい」という欲望に気づかされるエントリとなりました。

というわけで(どういうわけだ)最近きづきあきら+サトウナンキづいています。

先日は「いちごの学校」に言及したわけですが、きづきあきらに言及するなら「ヨイコノミライ」は避けて通れないだろ、という声が聞こえるんです。自分の頭から。そんなわけで、「ヨイコノミライ」についても書いておく。またもネタバレ気にせず書くので、ネタバレが嫌なひとは以下読まないほうがいいと思います。

とは言え、正直ぼくは「ヨイコノミライ」についてはあまり語ることができない。というか、直視することが辛いのですよ。よく「ヨイコノミライ」のレビューでは「痛い」だとか、「身に覚えのある痛さがいたたまれない」とか、「オタクならば通ってきた道が描かれてる」みたいなことが書かれているのだけれど、なんかもうぼくにとってはそういうもんじゃないんだよ。登場するオタクたちが抱えている問題は未だにぼくが抱え続けているメンタリティで、とてもじゃないけど「あー、痛いよねー」って客観視するなんてできない。目が滑って読めない。まあそういうマンガ。だからぼくは「痛いオタク」あるいは「オタクの痛さ」みたいな視点についてはちょっと沈黙させてもらう。そこについてはまったく冷静でいられないから。

じゃあ何について話そうかといったら、それはヒロイン(まあぼくの中ではヒロインは桂坂さん一択なんですけどね!)の青木杏さんで、このひとはいわば作品中で「トリックスター」の役割を果たしているのだけれど、その役割ゆえか、あまり彼女にフォーカスした感想って見ないんですよね。今回は彼女にフォーカスした感想を。普段ポストイット張りながら漫画読んだりしないんだけど、今回このエントリ書くためにポストイット使って読んでしまったよ。

さっきも書いたけど、青木さんは「トリックスター」で、「ぬるま湯」に浸かってたオタクたちを引っ掻きまわして「夢潰し」をして「ぬるま湯」をぶっ壊す(それにより、各オタクたちも変化を余儀なくされる)のだれけど、その動機に触れてる感想をぼくはあまり見ない(まあ、オタクたちのエピソードの印象が強すぎるので、青木さんはある意味目立たないのだ。だからしょうがないと言えばしょうがない)。

でもさ、いくら「あいつらムカつくなー」「ぬるいなー」と思っても、わざわざそいつら「つぶしにいく」って、相当ぶっとんだ思考だよ? そこには「むかつく」なんてもんじゃなくて、もっと強い動機があってもおかしくないはず(という考え方自体が非常に合目的的というか、近代的で「物語論」的な考え方、読み方ではあるけれど、ここではそれは措く)。というわけで、このエントリでは「トリックスター」という「役割としての青木さん」ではなくて、「いち個人としての青木さん」の気持ちを軸に「ヨイコノミライ」を読みます。

まず押さえておきたいのが、青木さんの設定。Wikipediaが結構よくまとまってるので引用します。

普段学校に来ない「保健室の姫」といわれている少女。実は漫画編集者の父親の命令で漫画を描いて新人賞の賞金稼ぎをしており、それゆえ漫画を嫌い、口ばかりのオタク揃いの漫研を「ゴミのようなただの『消費者』」と見下し、その崩壊を進める為に漫研による同人誌作成を発案し、裏で彼らをぶつけて暗躍する。

ヨイコノミライ(Wikipedia)

まあこうやってみると結構トンデモな設定ですよねやっぱり。いくら親に無理やりマンガ書かされてる(これも結構トンデモ...ってわけでもないか。音楽とかではよくある話だし)からって、わざわざ漫研つぶす必要はないだろ、っていう。

では彼女はなぜそんな「夢つぶし」みたいなことを「趣味」にしてるのか。あるいは彼らをつぶすことで何を思うのか。

実は青木さん、物語の中でたまに本音や迷いのようなものを口にします。たとえば過去の漫研の部誌を(勝手に)焼却炉に持っていくシーン。

青木:「...先生?...なんで人間は、もう何の意味も持たないものまでしつこく取っておきたがるんでしょうね?」

先生:「意味...か。そうだな、モノの価値っていうのは使用価値だけじゃないんだ。具体的に役に立つものじゃなくても記憶や知識から価値を見出すことがあるんだよ。爪切りと家族の写真の価値ってのは違うところにあると思わんか?」

青木:「......そうですか。でも先生、そうしたら、必要としてくれる人間を失ったモノは......誰にも知られず顧みられることもなく、ただそこに『在る』だけになったモノは......ただの、ゴミですよね......」

あるいは部長に「好きだからもっといろいろわかりあいたい」と言われるシーン。「好きなら...何もかも話せば全部受け入れて、そんなことで他人と......私と理解しあえるの?」

あとこんな独白も。「やっぱり、私の思った通り、なの...?夢は、人が実力を知るまでの妄想で、身の程を知れば打ち砕かれて、それで終わり、...なの...?」

あと、ぼくにとってのヒロインの桂坂さんが「デモンストレーション」としてのリスカではなくてマジのリスカをしたときの独白。「...手首じゃなくて、...ちゃんと自分と、たたかってくださいよ、先輩......」。

あるいは、稚拙な部誌が出来上がって「無駄だったんだ、こんなこともうやめよう、当分部も休みにしよう」と部長が言っているシーンのセリフ。「......いいえ。私たちが息の根止めた、みんなの夢、最後まで、見届けてあげなさい...」。

と、こういうやって見ていくと、彼女がわざわざ「夢つぶし」をしていく後ろに、なんだかすごい「飢え」を感じませんか? 「むかつくからつぶす」ってことじゃ、こんなせりふは出てこないでしょう。月並みな言い方だけど、彼女は、「つぶしてもつぶれない何か」を知るために、いろんなものをつぶしている、そういう風にも見えてくる。

「ほんとのことが知りたくて嘘っぱちの中旅に出る」と歌ったのはフリッパーズギターで、彼らもどこかにある「ほんとのこと」を求めて「こんなの全部うそっぱちだ!」といろんな「インチキ」を暴いていった。あるいは、しりあがり寿。しりあがり寿が2005年に出した自選短編集「のっぴょぴょ~」(ひどいタイトルだ...)のあとがきで素敵なことを言っている。これも引用する。

パロディーを通じて、恐怖を歴史をロマンを愛を、作品そのものではなく、その背後にある、人がバクゼンと信じてうたがわないものを笑いたかった。おおよそ、全てのものは裸の王様であると信じていた。この世に笑えないものなどない、とばかりに全てのモノを笑って笑って笑いつくしたかった。......でも今ふりかえってみると、結局ボクらがあんなに笑いにこだわったのは、「それでも笑えないなにか」をみつけるためだったかもしれない。ハダカでない王様。ウンチの山の中のダイヤモンド。本当に大切なモノをみつけるために、誰かとどこから笑おうとしても笑えないなにかを見つけるために、くだらないものをのけるために、手当たり次第に笑っていたんだと思う。

上に見たフリッパーズやしりあがり寿と似たような「飢え」を、ぼくは青木杏から感じ取ってしまう。彼女はただのトリックスターじゃない。「トリックスターが壊せない何か」をひたすらに探して、その中で自分も傷ついている、という人間に見える。「ほんとのことが知りたくて 嘘っぱちの中旅」をしている彼女も、嘘っぱちによって傷ついているように見える。

ね? 青木さんはただの「悪意の塊」じゃなくて、ある意味すごくさびしくて傷ついている「ひとりの人間」なんだって、わかるでしょ?

ぼくはきづきあきら(+サトウナンキ)の本は、「ヨイコノミライ」と「モン・スール(再編集版のやつ)」と「増殖フェティシズム(再録本のやつ)」と「いちごの学校」と「エビスさんとホテイさん(これはつぼみで連載中)」と「うそつきパラドクス(YAで連載中。単行本で読んでる)」しか読んでないのだけれど、こういう「ほんとのことが知りたくて嘘っぱちの中旅に出る」感覚は、形を変えながら一貫してきづき作品に流れているようにぼくは感じる(「ほんとの関係」とか、いろいろとね)。そして、結局「ホントのこと」ってのが最終的に見つかって「めでたしめでたし」とはならず、それでもどこかその救いのない中にこそ救いがある、的な。うまく言えないけど、そんな感じ。そしてこれは「THE END OF EVANGELION」以来、フィクションと現実の中でぼくがずーっと付きまとわれているテーマでもある。

なんかまとまりない感想になっちゃったな。まあ、それでも一応。そんな感じ。自分にホントに突き刺さる部分を避けての感想エントリでした。

きづきあきら+サトウナンキ「いちごの学校」の感想エントリです。ネタバレ含むので、ネタバレを嫌う人はここから下は読まないほうがいいと思います。

さて、感想みたいなものを書くのはだいぶん久々なので、まとまりなくぼろぼろと行きます。

まずは、これ多分怒っていいところだと思うんだけど、オビのコピーがひどい。いわく、「先生が好きで...興味があります。 元教師と元生徒+赤ちゃんのほんのり苦くて切ないラブストーリー」。おい、JAROに電話しなきゃいけないレベルだろこれ。うそ、大げさ、紛らわしいだよ。正しいコピーは「先生が好きで...興味があります。 だぁ?文化系オクテ男子のファンタジーをずたボロにしてやれ!」だと思うよマジで。まあぼくはきづきあきら+サトウナンキに限らず「甘いんだけど悪意がある」というの結構すきなので、いいんだけどさ。これオビにだまされて(?)買った人はショック受けるんじゃねーかな。

では内容について。

きづきあきらの書く女の子ってぼくすっごい好きなんだけど、この漫画のヒロインの「くるみ」がまず最高にかわいいんだよね。で、このかわいさってのが、まさに「文化系オクテ男子のファンタジー」なんですよ。つまり、文化系オクテ男子ってのは、かならず一回はこういう妄想をするんですね。「あー、俺ってば非コミュで非モテだけど、そんじょそこらのスポーツやっててさわやかーで頭の中からっぽな男子なんかよりよっぽど『人間的に深み』があるのになー。俺の『人間的な深み』を理解してくれて、当然そんなタイプの女の子だからあんまり『普通』の女の子じゃなくて、そんでぼくと同じ方向向いてて、でもぼくのほうが本読んでるからぼくをちょう慕ってくれるみたいな女の子があらわれないかなー」って。え? しない? うるせえ俺はしてたんだよ365日24時間! 「だいたいスポーツやってる=頭空っぽなどという貧困な発想力の持ち主が『人間的に深み』なんてあるわけない」? うるせえわかってるよ! だからファンタジーだ、妄想だって言ってるじゃねえかほっとけ! ...すみません取り乱しました。

で、このヒロインの「くるみ」がもう、そんな妄想ファンタジーをかなえてくれるったらないんですよ。主人公は元現国の教師(これも「文化系オクテ男子」の一種の欲望の表れである。文化系オクテ男子は「ぼくはたくさんちゃんと本を読んでいる」「ぼくはたくさんちゃんと映画を見ている」「ぼくはたくさんちゃんと音楽を聴いている」ってことが自意識を支えてたりするのだ)で、その主人公に「くるみ」は「人の命ってそんなに大事なんですか?」と質問するのだ。そのシーンがすばらしく最高に最高に最高。ちょっと長いけど引用します。

くるみ:先生/質問/人の生命(いのち)って、そんなに大事なものですか?/教えてください

主人公:突飛な質問だな/授業とも関係ない/答える義務はないが 大事だろ

くるみ:言い切りますね/この前の倫社のテストで/ある物語の抜粋と/「この物語を読んでどう思ったか答えよ」とだけ書かれた答案用紙が渡されました/生きのびるために人の道をはずれた行為をした男が/裁かれる話です/引用されたのは『ひかりごけ』っていう...

主人公:武田泰淳か

(中略)

主人公:なんて答えた

くるみ:「わからない」ということを/答案用紙の裏表びっしり使って書きました/とってもいい点でしたけど/テストの後もずっと考えて/そしたら少し答えがでてきたんです

(中略)

くるみ:あたしなんでか/この話を/先生に聞いてほしかった/なんでだろう

はいキタ! キタよこれ! 「ほんとのこと」が知りたくて悩む女の子。そしてその話を「ぼくにだけしてくれる」女の子! もう文化系オクテ男子の大好物じゃねーか。え? 大好物じゃない? うるせえ俺は大好物なんだよ!! 貧乳でショートカットってところもポイント高すぎる。だめ、死ぬ。

でね、この漫画って「先生と生徒だった」過去パートと、「結婚して子供がいる」日常パートが交互に描かれて進んでいくんだけど、「日常パート」でも、「先生、先生」って主人公を慕ってくれてるの、「くるみ」。なにこれかわいい死ぬ。

でもね、ぼくみたいな「自家中毒系男子」は、同時にこうも思ってしまうわけですよ。「でもこれって、要するに『居場所のない自分』が、『だれかの居場所』になることによって、自分を救いたい、っていう欲望だよな」。あるいは、「何も知らない女の子を支配したい、っていう欲望だよな」。と。もちろん、欲望そのものは悪いものではないし、前にも言ったけれどあらゆるコンテンツは「欲望充足メディア」としての側面を持つわけで、それ自体が悪いわけではないのだけれど、それにしてもやはりぼくはそれが「自分本位な欲望である」という事実を見ざるを得ない。なんと言ってもそれは、「相手を個人として認めなず、自分の所有物にしたい」欲望であり、「相手を自分の手の中においておくことで相手の可能性をすべて摘み取ってしまう」欲望なわけだ。

そして、この漫画では、最初に「キツくも幸せな家庭生活」とか「くるみ」のかわいさを見せ付けておきながら、この「自分本位な欲望」を容赦なく暴き立てるんですね。「高校生ヒロインの妊娠」という装置によって。妊娠によって教え子と付き合っている(しかも妊娠させた)ことがバレた主人公が、同僚の倫社の先生に「お叱りを覚悟で相談に」行ったときの倫社の先生の一言がキツい。キツすぎる。「大体が何の相談かわかっているか/一人の生徒の人生のあらゆる可能性を摘み取るか/一人の赤ん坊を殺すかだ」。妊娠という装置を使うことで、「中絶」という別の倫理的問題が浮かび上がってくる。そうすることによって、結局「文化系オクテ男子のファンタジー」が「相手の可能性をつぶすだけのものである」って事実が浮き彫りになってる。ほんと、きづきあきらって「キッツイ」作家です。

で、ある種「逃げ場」がなくなった「ファンタジー」は、カタルシスを求めるわけです。たとえば「懲戒免職」。「懲戒免職」になれば、そこで「ファンタジーを求めた自分への罰」が成就されてしまって、ある意味そこで「物語」にケリが着いてしまうんですね。ただ、きづきあきらはそうしない。「なんで私を罰しないんですか?」と主人公が校長に尋ねた際の校長は、「公表したら学校は信頼を失います。なんのために公表するんです? それはあなたの自己満足ではないですか?」という旨の発言をする。きづきあきらはこうやって徹底的に「ファンタジーの逃げ場」を無くしていきます。

結局、「責任を取る」という形での「ファンタジーの成就」を避けるストーリーによって、主人公は自分の欲望と終始向かい合わざるを得なくなっていくわけです(このへん、口の悪いぼくの友人は「女子高生を孕ませた教師がずーっと言い訳し続ける漫画」とか評しそうだな...)。

そして物語の終盤。結局「子供はぼくだけで育てることができる。きみがもし望むならきみは自由になっていい」(つまりファンタジーを「なかったことにする」)と相手に言う、という選択肢を主人公が選ぶわけですが、最終話にて、結局「くるみ」は主人公と一緒にいることを選んだ、という描写が出てきます(ここの絵と表現は漫画としてかなりよくできてる)。また、ここではじめて「くるみ」が主人公を「いちご君!」と名前で呼ぶのですが、そのあたり、「所有-被所有」の関係がようやく「対等」の関係になったような錯覚を呼ぶ効果を挙げていて、「うまいなあ」と思います。

で、これで終われば「文化系オクテ男子のファンタジーの行方」の罪みたいなものは「発展的に解消」されて「めでたしめでたし」ってことになるんだけど、そうは問屋が卸さないのがきづきあきらなわけで。

物語はもうちょっとだけ続いて、主人公と「くるみ」が子供とともに街を歩いているところで女子高生の集団とすれ違います。そしてすれ違うときに、「くるみ」は女子高生の集団を目で追い、振り返ったときには主人公が「何を考えているのかわからない目」と評した表情で主人公を見つめる(このときの表情も、「漫画でしかかけない表現」をしてて「うまいなー」と思う)。それでもひるみながら「くるみ」の手をとる主人公。という形で終わるんです。

結局最後には、「お前ら、女の子所有したいっていうファンタジー持ってるけどな、結局相手は『他人』で、『理解できない』存在なんだぞ」っていう特大の毒と刺をぶっ刺されるわけですね。しかも結局「一緒にいる」以上、常に主人公は自分の「ファンタジー」の暴力性と向き合い続けることになる。ある意味でこの作品、「文化系オクテ男子のファンタジー」を装って文化系オクテ男子を取り込んでおいて、「文化系オクテ男子のファンタジー」を粉砕するっていう、おそろしい漫画です(このへん、「エヴァ」(TVシリーズ)に似てる。あれもオタクを取り込んでおきながらオタクのファンタジーを粉砕するおそろしいアニメだったからな...)。

でもね、これ、ぼくは、ある種の救いがあるハッピーエンドだと思うんだ。エヴァもそうだったけど、結局、他人とのコミュニケーションってのは「わかんない」し「わかってもらえない」の連続だと思うんだよね。それでも、「手を差し出す」ってこと。そして、何がすばらしいかって、「キツくも幸せな家庭生活」ってのも、「甘くも幸せなふたりの生活」ってのも、きちんと愛情を持って書かれてるところ。

文化系オクテ男子のファンタジーを粉砕しつつも、「ひとと一緒にいるってことは、そんなに悪いことばかりじゃないよ」っていう面もしっかり描かれてる。ほんと傑作だと思った。興味を持ったひとはぜひ読んでみてください

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都内在住プログラマ。男子。

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