友人がほしがっていたので萃夢想bot作りました。

東方萃夢想とは、上海アリス幻樂団黄昏フロンティアが共同制作した弾幕アクションゲームです

botはhttps://twitter.com/suimusou_botで動いています。なお、作者の@shinpei0213は萃夢想プレイヤーではありません。

5分に一回タイムラインを見に行き、@suimusou_bot 宛てに「対戦相手募集」を含むとメンションがあれば「.@user さんが対戦相手を募集しています http://元発言へのURL」とつぶやくだけのbotです。

要望やバグ報告等は@shinpei0213 宛てにお願いします。気が向けば対応します。

どうも。猫型です。小沢健二の全国ツアー、続々と情報が出てきてて寝てもいられない感じですね。

ええと、前の記事で「オーディオアンプとスピーカーが欲しい」と書いたんですが、アンプ職人の友人がオーディオアンプとスピーカーを譲ってくれました。なんというか、すみません、ありがとうございます。

以前使っていたのはBOSEのWaveRadio/CDで(リンク先は現在のモデル、wave music system)、これはお値段もそこそこ張りますがかなり良い音でぼくを約8年間くらい楽しませてくれました。ぼくが使う前は父が使っていたので、もう10年選手ですね。今は彼女の部屋へと場所を移してなかなか良い音を聴かせてくれてます。

そして今使っているのは友人の手作りの真空管アンプと手作りのスピーカー。ぼくはちょっとあまりオーディオに詳しくないので、詳しいスペックはよくわかりませんが、友人がコメント欄で詳細を教えてくれるかもしれません。そのときは「神!」とたたえようと思います。ちなみに今回のエントリのタイトルは真空管(tube)から連想しただけです。flipper's guitarや小沢ファンのひと(いやぼくもなんだけどさ)には先に謝っておきます。ごめんなさい。

で、インプレなんですが、さっきも言ったとおりぼくはあんまりオーディオには詳しくないので、印象論でいきます。こういうのはそれなりの音量で聴くものだよね。

BOSEのやつと今のやつを比べると一目瞭然(一耳瞭然?)なのですが、やはりBOSEのやつはすごく「いじられた音」なんだなー、って実感しますね。

とくに顕著なのがベースで、BOSEのやつはすごくベースが太くて、深夜に聴くのをちょっとためらっちゃうレベルでベースがぶんぶん言ってました。それに比べると今のやつはバランスがいいですね。これは好みの問題でしょうが、ぼくは今のほうが気に入っています。

あとは、これって真空管とトランジスタの違いなのかなーと思うんですが、BOSEのと比べると音がやわらかいというか、手触りがなめらかな感じですね。ひとつひとつの音像ははっきりしてるんだけど、なんかやわらかく感じる。今BOSEのやつ聴くと、ちょっとカリカリして聞こえます。シャープというか、手触りがざらざらしているというか。このへんはシンバルの音とかストリングスの音に顕著に差が出てるように感じます。理屈の上ではトランジスタのほうがいい音が鳴る、という話を知り合いの電気技師のひとから聞いたことがありますが、こうやって聞き比べてみると真空管アンプが好まれるのも納得です。それなりの音量まで上げたときに今のやつのほうが耳が疲れない感じですね。BOSEのはちょっと鋭すぎるというか。

ただ、上の二点はどっちも好みの問題というか、ジャンルの問題というか、ダンス系とか好きなひとはBOSEので聴いたほうがいいかもですね。ぼくは部屋であまりダンス系とか聴かないので、べつにいいです。部屋ではあまりデジデジしたやつ聴かないし、どちらかというとアナログ系の音のものをよく聴くので、これ最高です。あと、BOSEのやつはBOSEのキャラクターが強すぎて最近飽きてきてたので(なに聴いてもBOSEの音なんだもん・笑)、こういう素直な音はうれしいです。ちょっといろいろスピーカーためしてみたくなるなぁ。

これ、クラシック、それも交響曲とかをそれなりの音量で聴きたくなりますね。BOSEのときはあんまりそういう欲求を喚起しなかったんだけど。こんどなんか借りてこようかなあ。

あけましておめでとうございます。新年早々結膜炎でしんどいです。今年もよろしくおねがいします(おざなり)。2010年と言ったらみなさんにとってどんな年ですか? 宇宙の旅? ぼくにとっては「NASAが作り出したミュージックマシーンが なんか全部ぶっ壊れた」年です。あのころすごく「未来感」があった2010年に生きていると考えるとちょっとすごいですね。

というわけで2010年最初の記事は物欲ログ。略してブツログシリーズ。

AMT Electronics M1
fender系のいいアンプ持ってるから、たぶん持ってても使わないんだけど。マーシャル系の音が出せるものも手元に置きたいっていう欲望。それだけ。でももしあったらたぶん宅録のときに使うと思う。
Guitar Rig Kontrol
宅録でしか使わないんだったらこれのほうがほしい。ただ、やっぱり生でやるのが一番好きで、自分にとって宅録はバンドのデモ用くらいの位置づけなので、宅録のためにここまで高いものを買う勇気が出ない。同人音楽など、他人に聴いてもらうようなものでギター入れることになったら買ってしまいそうで怖い。
Pod X3 Live
こいつだったら宅録だけじゃなくてライブでも使えるなー。と思うんだけど、ぼくはアンプやエフェクタetc.はアナログ派なので、結局買っても宅録にしか使わないと思う。ギターリグと迷うところだけど、Podのほうが直感的な感じがするんだよなー。
SONAR
説明いらねーだろもうこれ。ワンランク上のDAWがほしい。
オーディオアンプ + スピーカ
今はBOSEのWave Music Systemの古いやつ(大学の合格祝いで父がくれた)使ってて、これはこれですげー音がいいんだけど、ちょっと低域が強調されすぎてて、それはそれで気持ちいいんだけどやっぱり素直なキャラクターの再生環境がほしい。
買うとしたらPodだな。買うとしたらPodだけど高いよ。高い。バンドのメンバーに聴かせるだけのデモのために5万はちょっと高いなー。でもほしいなー。おもちゃとしてもほしいなー。おもちゃに5万ってちょっと高すぎるよなー。

オーディオアンプ+スピーカは手作りアンプの会の会員の父に格安で作ってもらうという手もあるのだった。これが一番現実的だな。

だれかお年玉として上記のどれかぼくにください。

今日でゼロ年代が終わり、明日から10年代が始まる。

ゼロ年代のぼくをふりかえると、高校生、大学生、社会人と変化してきているのだけれど、「中身」はそんなに変化していないように思う。

思えば、2001年にアメリカで同時多発テロが起こり、高校が作っていた雑誌でぼくはその同時多発テロと文化相対主義についての文章を書いた。大学に入ってからもぼくの問題意識はそこにあって、大学の卒論も同時多発テロについて論じるところを出発点にしている。

あと、ゼロ年代のはじめのころ、ぼくはICQなどでネットの友人とやりとりをしていた。まじめな話や、くだらない話に熱中して、そのまま寝落ちなんてこともあった。そしてゼロ年代のおわり頃、昨日はツイッターをひらいたまま寝落ちしたのだった。思えばICQで仲良くしていた友人の一部とは、いまだにツイッターでつるんでいたりもする。やはりゼロ年代を通じてあまりぼく自身は変わっていないようだ。変化したのは、ツールと環境だけ。変わらない関係や問題意識を約10年間持ち続けていながら、環境やツールには隔世の感があるのをかんがえると、すこしだけめまいがする。

でも、じつは、ゼロ年代はぼくにひとつの大きな変化を生んでいて、それは今はぼくが自分自身を「許してる」ということだと思う。ゼロ年代のはじめのころ、他人を見下して他人を貶すことでしかぼくは自分に価値を見い出せなかった。えらくプライドが高くて攻撃的だったのだけど、当時のぼくを知るひとは口を揃えて最近のぼくを「丸くなった」と言う。それはたぶんなにより、ぼくが自分に価値を認めるために他人をくさす必要がなくなったからだろうと思う(しかしいまだに口は悪い)。

ぼくがそんなふうに自分を受け入れることができるようになったのは、なによりもゼロ年代のほぼ半分を一緒に過ごしてくれた恋人が、ぼくのことを受け入れてくれているからだと思う。今の恋人という回路を迂回してようやく、ぼくはぼくを許すことができている。その回路を作ることができたゼロ年代は、なんだかんだと言ってぼくにとってとても特別な年代だったと思う。

ぼくと仲良くしてくれるみんな、ゼロ年代はたいへんお世話になりました。10年代もよろしくおねがいします。

最近webが(というかぼくの観測範囲が)性犯罪に対する自衛がらみで盛り上がってる。簡単にまとめると、「最近のおなごはミニスカートとか履いてるし暗い道を平気でひとりで歩くし、これじゃ犯されたって文句言えないわよ!」みたいな、ちょっと何をいってるのかわからないですねって人の意見を発端に、いろんなひとが「いやいや、それおかしいだろ」って言ったり「これおかしいとか言ってるけど、自衛を説くことのなにがいけないの」みたいな話になってる。

正直この話については、被害者のみが「夜道を出歩くな」だとか「ミニスカート履くな」というように行動を制限され、加害者の行為は「なくせない」と「容認」されるその非対称性、おかしいよねってことでFAなので、これがわからないひとは本当に頭が悪いとしか言いようがない。

これ、ほんと単純な話だよ。「性犯罪が存在する→その被害者(になりうるひと)の行動を制限しましょう」って、おかしいでしょ? 制限されるべきは加害者の行動の方なはずでしょ本来は。まさか「他人を強姦する自由は制限されるべきではない」なんてことを言いますまい?

たまに「鍵をかけないとかアホすぎるって話だろ」みたいなこと言うけど、それとこれとは話が違うの。家に鍵をかけることによって鍵をかけた人の何が制限されるの? むしろ適切なたとえとしては、「店頭に商品を陳列していると万引きにあう可能性があるので、コンビニは商品を陳列しないようにすべき」とか、「商品を魅力的に見せるようなCMを流すとその商品は万引きにあう可能性があるので、CMは自粛すべき」とかそういう話なの(例に商品を使ったけど、べつにこれ「女性は商品である」という主張じゃないからね。念のため)。これならトンデモっぷりがよくわかるでしょ。だれも「鍵かけるな」なんて言ってなくて、「いやいや、普通に生活を営ませてくださいよ」って言ってるの。

働いてたら、帰りに夜道を一人で歩くことをやめることはできないし(中高生だって部活終わって帰る時間とか、今の季節だったら真っ暗だよもう)、服装くらい自由にさせろよ。

自衛するに越したことはないってのはそのとおりだけど、「行動を制限しろ」ってのは自衛じゃなくて「抑圧」っていうの。わかるかなこの違い。

で、こういうこと言うと「じゃあ男の行動が制限されるのはいいんですか?ダブルスタンダードだ!」みたいなことを言うやつが出てくるけど、もういい加減にしろよ。「男の行動」を制限しろなんていってないの。「加害する権利なんてものは最初から存在しない」って言ってるの。

何度も言うけど、これってほんとにシンプルな話で、加害者と被害者がいるときに、加害者の行為は「そこにあるもの」として容認されて(男はケモノだから、とか、性犯罪をなくすことはできないからそれは「そこにあるもの」として考えなきゃならないとか)、被害者の行動は「制限されるべきもの」であるって認識はどー考えたっておかしいでしょって話なの。男の権利だとか女の権利とかそういうレベルの話じゃなくて、「加害する自由」と「被害者が自由に日常生活を送ること」、制限されるべきはどっち?って話。ていうかそもそも最初から「加害する自由」なんてないんだけどさ。

だれも「自衛は大切である」ってことに対して「いや、大切じゃないよ」なんて言ってないの。「『あえて』『ことさらに』自衛しろと『説くこと』」が抑圧になってるって話なの。

webで性犯罪の自衛について説いてるひとは、もういい加減それを自分の恋人や娘にではなく「webで」「不特定多数に」「規範として」表明していることの意味にそろそろ気づこうよ。

以下12/11追記。

かなり誤解を生む表現になっているので。一部削除しました(delしてます)。最後の段落については、このような「規範」を公的に発言することは、私的な領域での抑圧を構造的に強化しているよね、それはまずいよねって趣旨です。当然ぼくは恋人や娘に対して「スカート履くな」だの「夜一人で出歩くな」だの言うことは(私的領域での)抑圧だと思っています。

ちなみに、恥を忍んで自分の欲望について告白しておけば、ぼくはどちらかというと恋人に対して抑圧的にふるまいがちです。そのたびに自分の欲望については客観視しようとしているのですが、完全になくすことはできていません(完全になくすことができている人なんているのだろうか...?)。

ただ、ぼくはいつも自分の恋人との間になにか問題が起こったときには、きちんとコミュニケーションをして、二者間の問題として毎回なるべくどちらかが抑圧されないように解決をはかっていて、そういう意味で「二者間の抑圧の問題は *その二者間によって* 双方が合意できる状態にもっていくことができる」と考えています。構造的な問題も、二者間の問題になったときには「その二者間特有の問題」となり、「その二者間特有の解決方法」で解決できる、とは認識しています(もちろん、そのためにはその背後にどういう「権力関係があるのか」に自覚的になる必要がありますが)。

ただ、そういう認識が、私的関係での抑圧があたかも問題でないかのようにとらえられる言葉に結びついたところに、ぼく自身がぼくの私的関係において「構造的な抑圧」の抑圧者であるということから逃げたい気持ちが働いていないと言えばたぶん嘘になるでしょう。そういう意味で、今回のエントリはぼくの「相手を支配したい」という欲望に気づかされるエントリとなりました。

というわけで(どういうわけだ)最近きづきあきら+サトウナンキづいています。

先日は「いちごの学校」に言及したわけですが、きづきあきらに言及するなら「ヨイコノミライ」は避けて通れないだろ、という声が聞こえるんです。自分の頭から。そんなわけで、「ヨイコノミライ」についても書いておく。またもネタバレ気にせず書くので、ネタバレが嫌なひとは以下読まないほうがいいと思います。

とは言え、正直ぼくは「ヨイコノミライ」についてはあまり語ることができない。というか、直視することが辛いのですよ。よく「ヨイコノミライ」のレビューでは「痛い」だとか、「身に覚えのある痛さがいたたまれない」とか、「オタクならば通ってきた道が描かれてる」みたいなことが書かれているのだけれど、なんかもうぼくにとってはそういうもんじゃないんだよ。登場するオタクたちが抱えている問題は未だにぼくが抱え続けているメンタリティで、とてもじゃないけど「あー、痛いよねー」って客観視するなんてできない。目が滑って読めない。まあそういうマンガ。だからぼくは「痛いオタク」あるいは「オタクの痛さ」みたいな視点についてはちょっと沈黙させてもらう。そこについてはまったく冷静でいられないから。

じゃあ何について話そうかといったら、それはヒロイン(まあぼくの中ではヒロインは桂坂さん一択なんですけどね!)の青木杏さんで、このひとはいわば作品中で「トリックスター」の役割を果たしているのだけれど、その役割ゆえか、あまり彼女にフォーカスした感想って見ないんですよね。今回は彼女にフォーカスした感想を。普段ポストイット張りながら漫画読んだりしないんだけど、今回このエントリ書くためにポストイット使って読んでしまったよ。

さっきも書いたけど、青木さんは「トリックスター」で、「ぬるま湯」に浸かってたオタクたちを引っ掻きまわして「夢潰し」をして「ぬるま湯」をぶっ壊す(それにより、各オタクたちも変化を余儀なくされる)のだれけど、その動機に触れてる感想をぼくはあまり見ない(まあ、オタクたちのエピソードの印象が強すぎるので、青木さんはある意味目立たないのだ。だからしょうがないと言えばしょうがない)。

でもさ、いくら「あいつらムカつくなー」「ぬるいなー」と思っても、わざわざそいつら「つぶしにいく」って、相当ぶっとんだ思考だよ? そこには「むかつく」なんてもんじゃなくて、もっと強い動機があってもおかしくないはず(という考え方自体が非常に合目的的というか、近代的で「物語論」的な考え方、読み方ではあるけれど、ここではそれは措く)。というわけで、このエントリでは「トリックスター」という「役割としての青木さん」ではなくて、「いち個人としての青木さん」の気持ちを軸に「ヨイコノミライ」を読みます。

まず押さえておきたいのが、青木さんの設定。Wikipediaが結構よくまとまってるので引用します。

普段学校に来ない「保健室の姫」といわれている少女。実は漫画編集者の父親の命令で漫画を描いて新人賞の賞金稼ぎをしており、それゆえ漫画を嫌い、口ばかりのオタク揃いの漫研を「ゴミのようなただの『消費者』」と見下し、その崩壊を進める為に漫研による同人誌作成を発案し、裏で彼らをぶつけて暗躍する。

ヨイコノミライ(Wikipedia)

まあこうやってみると結構トンデモな設定ですよねやっぱり。いくら親に無理やりマンガ書かされてる(これも結構トンデモ...ってわけでもないか。音楽とかではよくある話だし)からって、わざわざ漫研つぶす必要はないだろ、っていう。

では彼女はなぜそんな「夢つぶし」みたいなことを「趣味」にしてるのか。あるいは彼らをつぶすことで何を思うのか。

実は青木さん、物語の中でたまに本音や迷いのようなものを口にします。たとえば過去の漫研の部誌を(勝手に)焼却炉に持っていくシーン。

青木:「...先生?...なんで人間は、もう何の意味も持たないものまでしつこく取っておきたがるんでしょうね?」

先生:「意味...か。そうだな、モノの価値っていうのは使用価値だけじゃないんだ。具体的に役に立つものじゃなくても記憶や知識から価値を見出すことがあるんだよ。爪切りと家族の写真の価値ってのは違うところにあると思わんか?」

青木:「......そうですか。でも先生、そうしたら、必要としてくれる人間を失ったモノは......誰にも知られず顧みられることもなく、ただそこに『在る』だけになったモノは......ただの、ゴミですよね......」

あるいは部長に「好きだからもっといろいろわかりあいたい」と言われるシーン。「好きなら...何もかも話せば全部受け入れて、そんなことで他人と......私と理解しあえるの?」

あとこんな独白も。「やっぱり、私の思った通り、なの...?夢は、人が実力を知るまでの妄想で、身の程を知れば打ち砕かれて、それで終わり、...なの...?」

あと、ぼくにとってのヒロインの桂坂さんが「デモンストレーション」としてのリスカではなくてマジのリスカをしたときの独白。「...手首じゃなくて、...ちゃんと自分と、たたかってくださいよ、先輩......」。

あるいは、稚拙な部誌が出来上がって「無駄だったんだ、こんなこともうやめよう、当分部も休みにしよう」と部長が言っているシーンのセリフ。「......いいえ。私たちが息の根止めた、みんなの夢、最後まで、見届けてあげなさい...」。

と、こういうやって見ていくと、彼女がわざわざ「夢つぶし」をしていく後ろに、なんだかすごい「飢え」を感じませんか? 「むかつくからつぶす」ってことじゃ、こんなせりふは出てこないでしょう。月並みな言い方だけど、彼女は、「つぶしてもつぶれない何か」を知るために、いろんなものをつぶしている、そういう風にも見えてくる。

「ほんとのことが知りたくて嘘っぱちの中旅に出る」と歌ったのはフリッパーズギターで、彼らもどこかにある「ほんとのこと」を求めて「こんなの全部うそっぱちだ!」といろんな「インチキ」を暴いていった。あるいは、しりあがり寿。しりあがり寿が2005年に出した自選短編集「のっぴょぴょ~」(ひどいタイトルだ...)のあとがきで素敵なことを言っている。これも引用する。

パロディーを通じて、恐怖を歴史をロマンを愛を、作品そのものではなく、その背後にある、人がバクゼンと信じてうたがわないものを笑いたかった。おおよそ、全てのものは裸の王様であると信じていた。この世に笑えないものなどない、とばかりに全てのモノを笑って笑って笑いつくしたかった。......でも今ふりかえってみると、結局ボクらがあんなに笑いにこだわったのは、「それでも笑えないなにか」をみつけるためだったかもしれない。ハダカでない王様。ウンチの山の中のダイヤモンド。本当に大切なモノをみつけるために、誰かとどこから笑おうとしても笑えないなにかを見つけるために、くだらないものをのけるために、手当たり次第に笑っていたんだと思う。

上に見たフリッパーズやしりあがり寿と似たような「飢え」を、ぼくは青木杏から感じ取ってしまう。彼女はただのトリックスターじゃない。「トリックスターが壊せない何か」をひたすらに探して、その中で自分も傷ついている、という人間に見える。「ほんとのことが知りたくて 嘘っぱちの中旅」をしている彼女も、嘘っぱちによって傷ついているように見える。

ね? 青木さんはただの「悪意の塊」じゃなくて、ある意味すごくさびしくて傷ついている「ひとりの人間」なんだって、わかるでしょ?

ぼくはきづきあきら(+サトウナンキ)の本は、「ヨイコノミライ」と「モン・スール(再編集版のやつ)」と「増殖フェティシズム(再録本のやつ)」と「いちごの学校」と「エビスさんとホテイさん(これはつぼみで連載中)」と「うそつきパラドクス(YAで連載中。単行本で読んでる)」しか読んでないのだけれど、こういう「ほんとのことが知りたくて嘘っぱちの中旅に出る」感覚は、形を変えながら一貫してきづき作品に流れているようにぼくは感じる(「ほんとの関係」とか、いろいろとね)。そして、結局「ホントのこと」ってのが最終的に見つかって「めでたしめでたし」とはならず、それでもどこかその救いのない中にこそ救いがある、的な。うまく言えないけど、そんな感じ。そしてこれは「THE END OF EVANGELION」以来、フィクションと現実の中でぼくがずーっと付きまとわれているテーマでもある。

なんかまとまりない感想になっちゃったな。まあ、それでも一応。そんな感じ。自分にホントに突き刺さる部分を避けての感想エントリでした。

きづきあきら+サトウナンキ「いちごの学校」の感想エントリです。ネタバレ含むので、ネタバレを嫌う人はここから下は読まないほうがいいと思います。

さて、感想みたいなものを書くのはだいぶん久々なので、まとまりなくぼろぼろと行きます。

まずは、これ多分怒っていいところだと思うんだけど、オビのコピーがひどい。いわく、「先生が好きで...興味があります。 元教師と元生徒+赤ちゃんのほんのり苦くて切ないラブストーリー」。おい、JAROに電話しなきゃいけないレベルだろこれ。うそ、大げさ、紛らわしいだよ。正しいコピーは「先生が好きで...興味があります。 だぁ?文化系オクテ男子のファンタジーをずたボロにしてやれ!」だと思うよマジで。まあぼくはきづきあきら+サトウナンキに限らず「甘いんだけど悪意がある」というの結構すきなので、いいんだけどさ。これオビにだまされて(?)買った人はショック受けるんじゃねーかな。

では内容について。

きづきあきらの書く女の子ってぼくすっごい好きなんだけど、この漫画のヒロインの「くるみ」がまず最高にかわいいんだよね。で、このかわいさってのが、まさに「文化系オクテ男子のファンタジー」なんですよ。つまり、文化系オクテ男子ってのは、かならず一回はこういう妄想をするんですね。「あー、俺ってば非コミュで非モテだけど、そんじょそこらのスポーツやっててさわやかーで頭の中からっぽな男子なんかよりよっぽど『人間的に深み』があるのになー。俺の『人間的な深み』を理解してくれて、当然そんなタイプの女の子だからあんまり『普通』の女の子じゃなくて、そんでぼくと同じ方向向いてて、でもぼくのほうが本読んでるからぼくをちょう慕ってくれるみたいな女の子があらわれないかなー」って。え? しない? うるせえ俺はしてたんだよ365日24時間! 「だいたいスポーツやってる=頭空っぽなどという貧困な発想力の持ち主が『人間的に深み』なんてあるわけない」? うるせえわかってるよ! だからファンタジーだ、妄想だって言ってるじゃねえかほっとけ! ...すみません取り乱しました。

で、このヒロインの「くるみ」がもう、そんな妄想ファンタジーをかなえてくれるったらないんですよ。主人公は元現国の教師(これも「文化系オクテ男子」の一種の欲望の表れである。文化系オクテ男子は「ぼくはたくさんちゃんと本を読んでいる」「ぼくはたくさんちゃんと映画を見ている」「ぼくはたくさんちゃんと音楽を聴いている」ってことが自意識を支えてたりするのだ)で、その主人公に「くるみ」は「人の命ってそんなに大事なんですか?」と質問するのだ。そのシーンがすばらしく最高に最高に最高。ちょっと長いけど引用します。

くるみ:先生/質問/人の生命(いのち)って、そんなに大事なものですか?/教えてください

主人公:突飛な質問だな/授業とも関係ない/答える義務はないが 大事だろ

くるみ:言い切りますね/この前の倫社のテストで/ある物語の抜粋と/「この物語を読んでどう思ったか答えよ」とだけ書かれた答案用紙が渡されました/生きのびるために人の道をはずれた行為をした男が/裁かれる話です/引用されたのは『ひかりごけ』っていう...

主人公:武田泰淳か

(中略)

主人公:なんて答えた

くるみ:「わからない」ということを/答案用紙の裏表びっしり使って書きました/とってもいい点でしたけど/テストの後もずっと考えて/そしたら少し答えがでてきたんです

(中略)

くるみ:あたしなんでか/この話を/先生に聞いてほしかった/なんでだろう

はいキタ! キタよこれ! 「ほんとのこと」が知りたくて悩む女の子。そしてその話を「ぼくにだけしてくれる」女の子! もう文化系オクテ男子の大好物じゃねーか。え? 大好物じゃない? うるせえ俺は大好物なんだよ!! 貧乳でショートカットってところもポイント高すぎる。だめ、死ぬ。

でね、この漫画って「先生と生徒だった」過去パートと、「結婚して子供がいる」日常パートが交互に描かれて進んでいくんだけど、「日常パート」でも、「先生、先生」って主人公を慕ってくれてるの、「くるみ」。なにこれかわいい死ぬ。

でもね、ぼくみたいな「自家中毒系男子」は、同時にこうも思ってしまうわけですよ。「でもこれって、要するに『居場所のない自分』が、『だれかの居場所』になることによって、自分を救いたい、っていう欲望だよな」。あるいは、「何も知らない女の子を支配したい、っていう欲望だよな」。と。もちろん、欲望そのものは悪いものではないし、前にも言ったけれどあらゆるコンテンツは「欲望充足メディア」としての側面を持つわけで、それ自体が悪いわけではないのだけれど、それにしてもやはりぼくはそれが「自分本位な欲望である」という事実を見ざるを得ない。なんと言ってもそれは、「相手を個人として認めなず、自分の所有物にしたい」欲望であり、「相手を自分の手の中においておくことで相手の可能性をすべて摘み取ってしまう」欲望なわけだ。

そして、この漫画では、最初に「キツくも幸せな家庭生活」とか「くるみ」のかわいさを見せ付けておきながら、この「自分本位な欲望」を容赦なく暴き立てるんですね。「高校生ヒロインの妊娠」という装置によって。妊娠によって教え子と付き合っている(しかも妊娠させた)ことがバレた主人公が、同僚の倫社の先生に「お叱りを覚悟で相談に」行ったときの倫社の先生の一言がキツい。キツすぎる。「大体が何の相談かわかっているか/一人の生徒の人生のあらゆる可能性を摘み取るか/一人の赤ん坊を殺すかだ」。妊娠という装置を使うことで、「中絶」という別の倫理的問題が浮かび上がってくる。そうすることによって、結局「文化系オクテ男子のファンタジー」が「相手の可能性をつぶすだけのものである」って事実が浮き彫りになってる。ほんと、きづきあきらって「キッツイ」作家です。

で、ある種「逃げ場」がなくなった「ファンタジー」は、カタルシスを求めるわけです。たとえば「懲戒免職」。「懲戒免職」になれば、そこで「ファンタジーを求めた自分への罰」が成就されてしまって、ある意味そこで「物語」にケリが着いてしまうんですね。ただ、きづきあきらはそうしない。「なんで私を罰しないんですか?」と主人公が校長に尋ねた際の校長は、「公表したら学校は信頼を失います。なんのために公表するんです? それはあなたの自己満足ではないですか?」という旨の発言をする。きづきあきらはこうやって徹底的に「ファンタジーの逃げ場」を無くしていきます。

結局、「責任を取る」という形での「ファンタジーの成就」を避けるストーリーによって、主人公は自分の欲望と終始向かい合わざるを得なくなっていくわけです(このへん、口の悪いぼくの友人は「女子高生を孕ませた教師がずーっと言い訳し続ける漫画」とか評しそうだな...)。

そして物語の終盤。結局「子供はぼくだけで育てることができる。きみがもし望むならきみは自由になっていい」(つまりファンタジーを「なかったことにする」)と相手に言う、という選択肢を主人公が選ぶわけですが、最終話にて、結局「くるみ」は主人公と一緒にいることを選んだ、という描写が出てきます(ここの絵と表現は漫画としてかなりよくできてる)。また、ここではじめて「くるみ」が主人公を「いちご君!」と名前で呼ぶのですが、そのあたり、「所有-被所有」の関係がようやく「対等」の関係になったような錯覚を呼ぶ効果を挙げていて、「うまいなあ」と思います。

で、これで終われば「文化系オクテ男子のファンタジーの行方」の罪みたいなものは「発展的に解消」されて「めでたしめでたし」ってことになるんだけど、そうは問屋が卸さないのがきづきあきらなわけで。

物語はもうちょっとだけ続いて、主人公と「くるみ」が子供とともに街を歩いているところで女子高生の集団とすれ違います。そしてすれ違うときに、「くるみ」は女子高生の集団を目で追い、振り返ったときには主人公が「何を考えているのかわからない目」と評した表情で主人公を見つめる(このときの表情も、「漫画でしかかけない表現」をしてて「うまいなー」と思う)。それでもひるみながら「くるみ」の手をとる主人公。という形で終わるんです。

結局最後には、「お前ら、女の子所有したいっていうファンタジー持ってるけどな、結局相手は『他人』で、『理解できない』存在なんだぞ」っていう特大の毒と刺をぶっ刺されるわけですね。しかも結局「一緒にいる」以上、常に主人公は自分の「ファンタジー」の暴力性と向き合い続けることになる。ある意味でこの作品、「文化系オクテ男子のファンタジー」を装って文化系オクテ男子を取り込んでおいて、「文化系オクテ男子のファンタジー」を粉砕するっていう、おそろしい漫画です(このへん、「エヴァ」(TVシリーズ)に似てる。あれもオタクを取り込んでおきながらオタクのファンタジーを粉砕するおそろしいアニメだったからな...)。

でもね、これ、ぼくは、ある種の救いがあるハッピーエンドだと思うんだ。エヴァもそうだったけど、結局、他人とのコミュニケーションってのは「わかんない」し「わかってもらえない」の連続だと思うんだよね。それでも、「手を差し出す」ってこと。そして、何がすばらしいかって、「キツくも幸せな家庭生活」ってのも、「甘くも幸せなふたりの生活」ってのも、きちんと愛情を持って書かれてるところ。

文化系オクテ男子のファンタジーを粉砕しつつも、「ひとと一緒にいるってことは、そんなに悪いことばかりじゃないよ」っていう面もしっかり描かれてる。ほんと傑作だと思った。興味を持ったひとはぜひ読んでみてください

お久しぶりです。猫型です。

日付が変わる前に寝ようとしたのですが、昼寝をしすぎてしまい、なかなか寝付けないので文章でも書いて眠りへのプレリュードとして、貴様らの鼻水を飲みつくしてくれるわ!

と、いきなり懐かしくもマイナーなネタですが、みなさんついて来てる?

えー、巷では目は口ほどに物を言う、なんてことが言われておりますが、私が考えるに、目よりも饒舌にその人の「ひととなり」を示すものに、「本棚」ってものがあると思うんです。たとえばこんな人、ぼくは仲良くなれる自信がありません。本棚の半分が「年収1000万の仕事術」だとか「金持ちと貧乏、その分かれ道」みたいな本で埋まってて、「あ、漫画だ」って思ったら「ワンピース」と「スラムダンク」だった(念のため言っておくけれど、ぼくワンピースは嫌いじゃないしスラムダンクにいたっては好きです)。あるいは、こういうのはどうでしょう。これみよがしにおいてある「聖おにいさん」。その脇には岡崎京子。そして小田扉。さらに南Q太。その横に魚喃キリコ(念のために言っておくと、岡崎京子はすげーと思うし小田扉はぼくも何冊か持ってます。好きです)。「もうお前はビレッジバンガードで暮らせ!」と言いたくなっちゃいませんか? あるいはこんなんでもいいです。本棚の一角にずらーっと並ぶ「批評空間」。それと「現代思想」のバックナンバーたち。もちろん「構造と力」は彼にとって「マストアイテム」。蓮實重彦、柄谷行人、浅田彰こそわが青春!みたいな。あるいはこんなものも...、と、いくらでも続けられますが、もうやめましょう。

で、ぼくの本棚の話。

ぼくは学生の頃は自分でも恥ずかしくなる感じの「文学部生」をやっておりまして、本棚の7割を占めるのは文芸、思想系の本でした(残り3割は漫画)。うーん、友達になるのはちょっと遠慮しておきたいタイプです。アレントだとか、ハーバマスだとか、フーコーだとか、そういうお名前で本棚が構成されている感じの学生でありました。座右の銘は「命がけの跳躍」です! みたいな。ただまぁ、それでも結構バラエティに富んでいたというか、有り余る自意識が邪魔をして、ある種の「テンプレ」に陥らないような本棚を心がけていた(という行為自体がすでにある種のテンプレではないか、と今になったら思うんだけど)ところはありました。あー、この辺の心性は当時のぼくの文章を引くほうが早いな。ちょっとばかし当時の日記から引用を。

そういえば昔(というほど昔でもないけれど)友人のひとりがレンタルビデオ屋でバイトをしているときに、「借りていくビデオでそのひとの趣味とか性格とかがある程度わかって面白い」という旨の発言をしていた。この感覚はなんとなくわかる。でもだからこそ、自分が買い物をするときにちょっと複雑な気持ちになる。

たとえばCDを買うとき(あるいは本を買うとき)、変に気を回してしまう。あーDCPRGとサン・ラーを一緒にレジに持っていったら「難解な音楽好き」と思われてしまうだろうか。そう思われたらなんか恥ずかしいからついでにスピッツも買っていこう、とか、『現代思想』と佐伯啓思(社会学者。主著に『隠された思考』など)を一緒に買うとレジのひとに「あーこのひとはこういうひとか」と思われてしまいそうだ、ついでにさくらももこのエッセイも買っていこう、とか、そんなふうに変に気を回して出費がかさむ。でも、本屋の店員やレコード屋の店員に誤解されるのがどれだけのことかと言われればたいしたことないことだといわざるをえないわけで、はっきり言ってばかばかしいというか、ちょっと空むなしいみたいな感じがする。というかただの自意識過剰なひとだ(だいたい店員がそんなことをいちいち考えるだろうか?)。

うん。今と文体が変わってねーですね。いや、今のほうがちょっと砕けたというか頭が悪そうというか退行した感じではあるけれど(笑)。あと、セルフ突っ込みしとくけど、サン・ラーもDCPRGもそんな難解じゃねーぞ。あと佐伯啓思と「現代思想」を同列に並べるのはちょっとどうなのかな。

それはともかく、まあこんな感じで「ある種のテンプレ」に陥ることを執拗に避けていたぼくなのですが、大学を卒業してしばらくしてから、文芸、思想系の書籍やらを全て実家に送ってしまったのですね。そして、その後仕事で使う技術書やら、仕事で疲れた頭でも読める漫画やらを買い込んだわけです。その結果、ぼくの本棚が今どうなっているか。

まず、本棚の5割を占めるのが漫画。4割を占めるのが技術書。で、残りの1割が「粘菌の本」だとか、あとこまごまとした文芸書。

まぁ、4割の技術書は職業柄しょうがないし、1割しかない文芸書についてはもはや「誤差」の範囲なのだけれど、問題は半数を占める漫画ですよ。

正直技術書ってのは実用書の類なので、無色と考えていい。1割しかない文芸書の類はさっきも言ったけど「誤差」の範囲。となると、ぼくの本棚が語る「ひととなり」は漫画のラインナップに集中してきてしまうんですね。

ここで、ぼくの本棚のぱっと目に入った漫画を紹介しましょう。まず「バクマン」(あー、売れてるし「漫画読み」の中で話題だよね)。えー、「レベルE」(あー、あれですか? 冨樫で一番いいのはこれ! とか言っちゃう感じ?)。えー、「もやしもん」(ぎゃー!)。「プラネテス」(あばばばばばば)。「魔女」(もう殺せ...)。「よつばと!」(あー、まあね)。「敷居の住人」(うん、いや、志村貴子好きだけどさ)。

どうよ、この「この漫画がすごい!」感あふれるラインナップ。ここに「大きく振りかぶって」とか「君に届け!」とかあったらもう完璧でしょ? しかも...今まで話題になってないけど、ここに「涼宮ハルヒシリーズ」に「とらドラ!」というラノベ陣が加わるんだぜ...。

本棚の4割を占める技術書とあいまって、なんだか「理工学部、学部3年目の、ちょっと漫画が好きな底の浅いオタク」像が見えてきませんかこの本棚から。いや、まぁぼくそういう「教養主義」みたいなのあんまり好きじゃないんだけど、にしてもね。唯一そこに対抗できそうなラインナップも、吾妻ひでお「海から来た機械」「ぶらっとバニー」とかSABE(成コミじゃねーか!)ですよ...。ここに氏賀Y太とか西川魯介とか入ればまたちょっと違った色が出るんだろうけど...。

とにかく、「本棚は口ほどに物を言う」という観点から見ると、ぼくはもうほんと、底の浅いクソオタク以外の何者でもないですよ。これだったら彼女の本棚のほうがよっぽどおもしろいですよ...。うぅ...。

いや、ぼく違うよ? 読書傾向もっとニューウェーブだったよ? さすがにちょっと危機感を感じるので、月に2回まんだらけに通うことを自らに課し、そろそろ眠いので久々のエントリをお開きとさせていただきます。

ええと、いまさらですがライブ告知します。

来る10/17(土)、高円寺はペンギンハウスというライブハウスでわたしがやっているバンド「数値海岸」のライブを行います。オープン19時、スタート19:30。チャージは\1800です。数値海岸の出順はトリなので21時以降の出演になります。高円寺駅から歩いてすぐのお店です。

ライブハウスはいかにも「ライブハウス!」という感じではなくて、椅子と机が出た状態でお酒を飲みながらゆったり見れる感じのお店でございます。お暇な方はぜひいらしておくんなまし。よろしくおねがいします。

先に言っとく。ひとことじゃない。長い。そして久々のエントリがこれだよ...。

さて。話題のラブプラスについて。「少子化が進む」「コナミのせいで日本がヤバイ」ともっぱらの評判のラブプラスですが、ご多分に漏れずぼくもプレイしております(もちろんきちんと本名プレイです)。リンコとデートを重ね、「今日のリンコはねこリンコだよ」の破壊力に鼻血を出しそうになったりする日々、みなさんいかがお過ごしでしょうか。今日のエントリはいつもに増して長いよ。でも冷静に書いたからそんなに気持ち悪くないと思うよ。

さて、このゲーム、第一印象としては「よく作りこまれた良作だなー」という感じでした。まずは徹底したキャラクタの作りこみについては素直にスゲーと言っておきたいです。

このゲームのキャラクタはかなり意図的に「二次臭さ」が脱臭されています。どういうことかと言うと、多くのいわゆる「萌えコンテンツ」のキャラクタは、「萌えコンテンツ界の記号の集合」のようなものです。「ツンデレ」だとか「無口」だとか「元気っ子」だとか、そういういわゆる「テンプレ」の集合体。もちろん、その集合体からはみ出る「何か」を持たないキャラにはあまり魅力はなく、いわゆる「萌えキャラ」も単なる記号の集合体ではないのですが、少なくともハマるための「フック」としては、そういう記号が大きい役割を果たしています。

一方ラブプラスがどうかと言うと、そういう「萌えのテンプレ」というよりもむしろ、「現実の記号」をうまく使っていると感じます。ぼくはゲーム内ではリンコに操を立てているので(キモい)、寧々さんやら愛花やらのことはよく知りませんが、リンコのキャラクタ性はむしろ、「ライ麦を読んでる」「ブリティッシュロック好き」「体育祭やら文化祭が嫌い」「うるさい人が嫌い」「恋愛小説が嫌い」「友達がいない」など、現実的な記号で語られます(しかしこのキャラクタ性、モロにぼくがターゲットである。コナミめ!)。しかもそれが「設定」として語られるわけではなく、彼女との会話やメールの中でその「性格(キャラクタ)」が明かされていくという仕組み。

キャラクターデザインも、昨今のラノベ、アニメ、マンガと比べるとどちらかというとリアル志向で(髪の色も全ヒロイン黒髪だしね)、モーションと声も相当「リアルにかわいい」を追及しています(もちろん、ラブプラスのほかにも「リアル志向」な作品は存在するんだけど、ラブプラスはその作りこみ方がハンパない)。

そんな風に、ある種の昨今のキャラクタが「二次元方向へかわいい」を追及した結果リアルとの乖離が激しくなる一方、ラブプラスのキャラクタはあくまで「三次元方向へかわいい」を追及したキャラクタだと思います(え? ぼく? ぼくはどっちのキャラも好きですよ)。そういうわけだから、「ラブプラスは浮気」みたいな悲劇(?)が生まれるのかもしれません。また、そういう意味では、もしかしたらいわゆる萌え文化にどっぷりなひとよりも、あまり萌え文化に漬かっていないひとのほうがこのゲームにハマるかもしれない。そのあたりはさすが「ときメモ」をヒットさせたコナミという感じがしますね。

さて、ここからが本題です(えっ。まだ語るの?)。

先ほど「よくできた良作というのが第一印象」と言いましたが、同時に感じた印象として、「あ、これはマズいな」という印象もありました。一言で言うと、ラディカルなフェミニズムの立場からはかなり批判の対象になるんじゃないかな、と直感的に思ったわけです。プレイを進めて、その直感は正しかったな、と思っています。

このゲーム、「女の子を自分の理想通りに染め上げるゲーム」という一面があるんですね。三次元方向にかわいい女の子を、自分の好きなように染め上げる、ある種の支配欲を充足するゲームです。それも、キャラクタは自ら望んで「ぼくのかんがえたすごいおんなのこ」像に寄り添っていく。「支配する男/支配される女」という図式を内面化したヒロインを、何の障害もなく支配できる。ジェンダーロールというのが社会的に作られるというのは、ドラマや小説、あるいはゲームや漫画などから受けた影響でジェンダーロールが決まっていくという部分もあるわけで、その意味でこの作品が「男/女」「支配/被支配」の構造を補強、再生産するものであるといわれても反論できないと思います。

さらに始末が悪いと思うのが、こういう支配/被支配の関係を、「恋愛」という要素でパッケージしてしまっているところです。支配欲やら権力性というものが、恋愛というパッケージで隠ぺいされる。その構造はやっぱり批判されてしかるべきだと思います。権力構造の隠ぺいは、一時期話題になったレイプゲームなんかよりもよほど強く権力構造を強化、再生産します。そういう意味で、そんじょそこらの凌辱系エロゲなんかよりもフェミニズムの槍玉にあがってもおかしくない作品だと思います。

ただ、だからと言ってこのゲームを規制したほうがいい、だとか、質(しつ)の悪いゲームだとか、そういう方向に話を持っていく気はサラサラないですし、そういう方向に話を持っていく人がいたらぼくは抵抗します。

ゲームに限らず、あらゆるコンテンツは「欲望充足メディア」として機能する部分があり、ラブプラスは「欲望充足メディア」として非常に完成されたゲームです。そういう意味ではかなり優れた作品だと思う。そして何より重要なことに、ラブプラスの中の女の子に対して権力や欲望をぶつけたとしても、相手は創作物です。いくらリンコがよくできていて、まるでそこに人格が存在するかのように見えても、そこに人格はありません。そうである以上、ラブプラスをプレイすること自体を裁くのは「欲望を裁くことだ」と言っていいと思います。その上で、ぼくたちは決してだれかの欲望を裁くことはできない。ぼくたちには内面の自由ってのが保障されているんだし。もちろん、こういう支配欲求を現実の人間に対して向けた場合(そしてそこに権力構造が見て取れる場合)は強く批判されるべきだし、場合によっては罰せられるべきだと思うけれど。

  • ラブプラスにハマる人間の欲望は認める
  • ただし、それを現実に持ち込むことは規制する
  • その欲望、欲求が現実ではある種の「権力構造を生む」ということはどんどん「啓蒙」する(「啓蒙」とは厭な言葉だけれど)

ってのが「正しいあり方」なんじゃないかな、と思うのです。というわけで、まとめます。

  • ラブプラスは欲望充足メディアとして非常によくできたゲーム
  • ただ、その構造は既存のジェンダーバイアスを強化、再生産しうる点で批判に値する
  • けど、欲望を裁くことはできないので、ゲームそのものをやめさせたり「禁書」にしたりってのはちょっと違うよね
  • 表現のレベルでの問題は社会のレベルじゃなくて表現のレベルで批判するのがいいと思う

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都内在住プログラマ。男子。

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