まぁ何も言わずに聴いてくれ。
http://www.nicovideo.jp/watch/nm5025079
一時期の電気グルーヴっぽくもある。
まぁ何も言わずに聴いてくれ。
http://www.nicovideo.jp/watch/nm5025079
一時期の電気グルーヴっぽくもある。
いまさらな話題ですが、「かんなぎ」って漫画で、ヒロインが非処女(中古品、と表現するらしい。非常に不愉快な表現である)であったということが明かされて、それに対して一部のファンがマジ切れしてるっていうじゃないですか。何が本気でわかんないのかと言うと、これがネタとしての行為なのかマジの行為なのか。と言ってみたところで、ことの本質はこれがネタなのかマジなのかということにはないな、ということに気付いた。というのは、仮にネタでやっているとしても、「そのネタを行う自分」が獲得するキャラクタ性がなにかあるわけで、ということはつまりネタであれマジであれ、ヒロインが非処女であるか処女であるかということが、この手のフィクションにとって重要な関心ごとだということには変わらない。
ぼくは、この理由がまったくわからない。
いや、ぼくも一応人並みに嫉妬心というものは持ち合わせているので、好きな女の子がほかの男の子に抱かれているところを想像したらそれなりに不愉快にはなるし、「ちくしょう」とも思わないわけではないのだけれど、それはむしろ「嫉妬」という醜い感情の部類であって、それを持って「中古品め!」などと言って相手を攻める気にはまったくならない。
嫉妬することと、非難することの間には、かなり大きな断絶がある。相手が非処女だったことによって、嫉妬の感情が生まれるのはまだ分かるのだけれど、そこから相手を「中古品」などと言って罵る理路は、いったいどうなっているのだろう。この精神構造に、ぼくは結構興味がある。この精神構造について、何かオススメの参考文書(書籍、web等媒体は問いません)やサンプルなどがあれば、ぜひ教えて欲しい。あるいはあなたのコメントでもかまいませんが。
postしようとした瞬間ふと思いついたので書いておく。もしかして、こういうことだろうか。
彼らにとって、二次元というのは自分の願望がすべてかない、自分にとって苦しいことは何もない世界であるべきなのだろうか。もしも彼らが、二次元にそういうユートピアを求めているのであれば、理由は簡単だ。自分の好きなキャラが、自分(あるいは自己を投影している主人公)意外とくっついてしまうことは、自分に嫉妬心という苦しい気持ちを感じさせる。ユートピアであるべき二次元で、そんな苦しい思いをさせるなんて、何事だ!!!!という怒り。
しかし、もしもそうだとしたら、彼らにとっての二次元は、なんて奥行きのない、ディストピアすれすれのものであることだろう。ぼくはそういう物語を、決して表現とは呼ばない。呼びたくない。それは表現ではなくて、「集団オナニー」っていうんだよ。そもそも、大好きな世界観やキャラクタが、そんな「うすっぺらい」ものでも満足できるとしたら、あんたの漫画やアニメに対する愛ってそんなもんですか?って感じだしな。
# ところで、隠喩ではなく実際にパフォーマンスとして「集団オナニー」を新宿あたりでやったら、それは表現として値すると思う。かなりの批評性もあり、おもしろい表現かもしれないなぁ。
今日はweb漫画をひとつ紹介します。
ここで読める、「堀さんと宮村くん」。通称堀宮。最近スクエニで書籍化もされましたが、同内容がwebで読めます。
# 以下ネタバレというほどでもないが内容に対する言及あり。
ぼくのような、決して明るくさわやかとは言い難い高校生活を過ごした人間なら、誰でも一度は夢想したことがあるあるだろう、桃源郷的な漫画。「クラスのみんなに受け入れてほしい」とか、「みんなからの承認がほしい」という気持ちを持っていながら、それを上手に表明することができなかったり、本当に限られた友人たちの前でしか笑えなかった人は、たぶんこの漫画を好きになるか、あるいは逆に読んで落ち込むか(耳を澄ませば症候群みたいな感じで)のどちらかだと思う。まぁ、ひとことで言うと、暗い男の子が、クラスのみんな(それもスクールカーストの上位の)と友達になって、そんでそこで承認されて、よかったね、って話。
と言ってしまうと、最近のラノベやマンガにありがちな、「非モテ、非コミュに都合のいいように作られたおとぎ話」系(今後はこういうのを「非コミュおとぎ話」と呼ぼう)のように聞こえるけれど、そういう「都合のいい妄想系」には食傷気味のぼくにも、堀宮は楽しく読むことができた。
これはたぶん、ひとえに主人公の描かれ方の問題なのだと、ぼくは思う。
端的に言うと、非コミュおとぎ話の主人公は、「巻き込まれ体質」だ。たとえば、「涼宮ハルヒ」のキョン。彼は、SOS団に、「巻き込まれる」形で参加する。そして、そこで(女性キャラたちに承認されながら)日常を過ごす。もちろん、話が進む中で、キョンが自発的にSOS団での日常を「選びなおす」という選択は行うのだけれど、それも、「降って湧いて出てきたSOS団という状況」を、肯定するという形だ。ポイントは、「自分のことを肯定してくれる状況」が、「向こうから勝手にやってきて」、自発的に行う行動は「それを肯定するだけ」というところ。つまり、キョンは、お膳立てしてもらった状況を「好き」とか「嫌い」とか言って、選んでいるだけってこと。非コミュおとぎ話の舞台装置って、「それなんてお姫様?」とでも言いたくなるような、おとぎ話的なつくりの舞台装置なんですね。これは最近面白かったラノベの、田中ロミオ「AURA」にもまるっとそのまま言える話だと思う。主人公は、巻き込まれて、その状況を自発的に肯定する。結局選んでるだけ。
実はぼくも、こういうおとぎ話願望は強く持っている。ぼくはよく飲み会の席で「モテてみたい」とか言ってるんだけど、それってこういうことなんだと思う。「自分から何一つ働きかけなくても、ぼくを肯定して、承認してくれる状況が降って湧いてこねーかなー」という、あまりにわがままで、あまりに幼稚な欲望。そういう欲望を自分が持っているからこそ、そういう欲望があまりに素直に顕在した非コミュおとぎ話を読むと、自分の醜さを拡大して見せつけられているような、なんともいえない居心地の悪さを感じてしまうことがある。
# 一応断わっておくけれど、ぼくは「涼宮ハルヒの憂鬱」や「AURA」を、「つまらない作品だ」と言っているわけではない。非常によくできた小説だと思うし、実際好きだ。けど、そういう幼稚な部分があって、それはちょっとどうかと思う、という、部分的な否定をしているだけだ。
ただ、堀宮については、同じく「暗い男の子がみんなに受け入れられる話」なのに、そういう嫌悪感を抱かずに済んだ。それはたぶん、主人公の宮村くんが、「お膳立てされた状況」をただ何もせず待っているのではなくて、状況を自分で作っていくような話の作りになっているからだと思う。宮村くんは、ぼくから見れば「ぼくの醜さを拡大する存在」ではなくて、「ぼくが取れなかった行動を取った」という意味で、ちょっとしたヒーローだと思う。
もちろん、「自分から動けば状況は変わる!」というのは、努力教という名の宗教でしかなく、自分から働きかけたって「キモい」とか「暗い」とか「ウザい」とか言われるだけってことはたくさんあるだろうし、そういう意味では堀宮も、おとぎ話であることには違いない。宮村くんイケメンだし。細いし。初期設定強すぎ。
だけど、自分から相手に好意や肯定を提供せず、ただ相手から好意や肯定を得たいと願っているだけの(に見える)幼稚さや我儘さが、主人公にないというだけで、これだけ作品から受ける印象が変わるんだな、とも思う。
少なくともぼくは、堀宮を読んで、ぼくに好意を持ってくれるひとたちや、ぼくを肯定してくれるひとたちに対して、ぼくからもきちんと好意や肯定を示していきたいと思ったし、そういう場を、自分からきちんと作ったり、大事にしたりしたいなー、なんて、そういう柄にもないことを思ったりした。まぁすぐに忘れてまた非コミュで非モテな精神構造に戻っちゃうんだけど。
堀宮。登場人物のキャラはどんどん変わるし(おいおい会長そんなキャラだったか!?)、設定はあまりにご都合主義的だし(どんだけ世間せまいんだよ)、そういう意味では決して「作りこまれた」漫画ではなく、細かい欠点はたくさんあるけれど、そんなことは問題ではなく、いい漫画です。お勧めしときます。結構ボリュームあるから、暇なときに何回かに分けて読むが吉ですよ。最終回はすでに迎えてますが、サイトでは現在進行形で「おまけ」が更新中です。
誰かここ一緒に行きませんか?↓
http://portal.nifty.com/2008/11/07/c/
荒井由実の「14番目の月」というアルバム。
今まで聴いたユーミンのアルバムの中で一番いい。松任谷正隆がはじめてユーミンをプロデュースしたアルバムなんですね。正直歌と歌詞と曲自体はたいしたことない気がするんですよ、ユーミンって。アレンジがよすぎる。要するに松任谷正隆がすげえ。まあTIN PAN ALLEYだしなー。
参加ミュージシャンを調べてみたら、豪華すぎて引いた(目だったものだけ挙げる)。
ほぼTIN PAN ALLEY関係者網羅してるじゃねぇか!!
林立夫さんが参加してないのが意外ですね、と思ったのだけれど、林立夫さんがドラムを叩いてたらちょっとリズムが黒すぎになるかもしれないことを考えると、ユーミンのバックとしては妥当なのかもしれない。
というわけで、TIN PAN ALLEYのすばらしさを再認識したので、いくつか動画を貼っておきますね。
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