最近東とはてな周辺が歴史修正主義と公共性の話をめぐっていろいろ大変みたい。大体のところはこの辺読むといいと思う。はてブの「関連エントリ」とかも拾うとだいたいの話の枠組みが見えてくる。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20081202/1228185282
http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html
で、ぼくは東の言うことがよくわかんなくて、「歴史修正主義者みたいな馬鹿でも、それを排除したらそれは公共性足りうるの?歴史修正主義の馬鹿どもの存在をデフォルトとして考えないとだめなんじゃないの?」って言ってるのかなー、なんて思ってて、「歴史修正主義者を排除するんじゃなくて、言論によって納得させなきゃいけなくて、そういう営みこそが公共性なんじゃない?」という主張に、「うん、そうだよね」なんて思ってたのだけれど、この前、大学の同期で編集やってるやつに「いや、そんな単純な話じゃないよ」って言われて、「うーん、そうなのか」と思ってた。
で、今日こんな記事を見つけた。
http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205/p1
# いつも講義のUPお疲れ様です。
この記事の以下の部分を読んで、なんとなく「あ、こういう方向かな」と思ったので書いておく。
1、 南京虐殺があると断言する人 ないと断言する人 かなりのボリュームでいる まずこれは事実2、
ポストモダン系リベラル
絶対的な真実は無い3、
これを合わせると、
たとえそれが個人的に腹が立つことだったとしても、
南京虐殺がなかったという人たちに対してある種の場所を与えなければならない
論理的にそう4、
右と左の立場を逆にしても同じこれがポストモダン系リベラルの基本的な条件
発言のポジションを与えたことで、
とんでもない奴だと糾弾する奴がいたら、
そいつはポストモダン思想もリベラリズムも何もわかっていないあんまりこういうことはいいたくないけど、
これは論理的な帰結だから、
これがわからないのは本当に頭が悪い次
でもこれじゃああまりにも相対主義的
ここからはちょっと頭が良い問題(かなり中略)
正義は脱構築不可能だとデリダは言った
高橋さんが言っていたのに比べると厄介なことを言っている
どういうことか
テキストが無いとやりにくいデリダって、こういう人
つまり例えば政治っていうものを考えたときに、哲学者とか知識人だったら、
ある種の政治的な振る舞いをしなければならない
しかしその中に入らない
拒絶もしない
政治的なことを言ってるのか言ってないのかわからない
それがデリダ一方に相対主義、対して決断主義
みんな物語、いやだからこそ選ぶ
『ゼロ年代の想像力』の話
相対主義が一方にあって、しかしそういう世界だから無根拠に選ばなければならない決断主義はもともとカールシュミットの言葉
宇野さんは多分意識してないけど、「決断」はかなり哲学用語デリダは厄介
決断するんだけど、絶えず決断不可能なものにまとわりつかれていて、
決断したのかもよくわからない
それが倫理
そういうタイプの哲学者デリダは相対主義ではない
全ては脱構築ではない
外部にトラウマ、それが正義の拠り所、とも言わない
常に自分が決断不可能なことを決断してしまった、
ということに取り囲まれながら生きていくかなー
きわめてへたれた男
うん、最初の出発点は、論理的にそうなってしまうことはぼくもわかる。これはぼくが大学を卒業する前にはてなでよく「リベラリズムが陥る罠」みたいな感じで何度も書いてたことと一緒。
http://d.hatena.ne.jp/shinpei0213/20050831/1125437290
上記の記事の前半くらいかな。
で、問題は「ちょっと頭が良い問題」のほうで、ここで東が何を言ってるかというと、強引に要約すると「決断するんだけど、絶えず決断不可能なものにまとわりつかれていて、決断したのかもよくわからない」という「決定不可能性」に、「(常にリベラリズムの罠に回収されてしまう)立場の異なる者たちによる対話」という形ではない公共性の可能性を見たらどうか、ってことなのかな、とぼくは解釈した。
うん。それなら言いたいことはわかる。「リベラルを押し通す限り、向かう先は相対主義になってしまうでしょ。それをどうやって乗り越えるかってところでしょ(高橋さんの「物語に回収されないトラウマうんぬん」を正義として据える方法もあるのかもしれないけどぼくはそれは違うと思う)」という東に対して、「それは相対主義だよ、自称中立乙!」って言うのが不当な批判だというのもわかる。
ただ、東の主張、ぼくの捉え方で正しいとすれば、東は「その意味で、公的に歴史修正主義者は間違えていると言って良い」って言って良いと思うんですよね。つまり、「決定不可能性」や「決断不可能性(逡巡)」に倫理や公共性を担保させるのであれば、「真実を騙る」という行為であるところの歴史修正主義は「公的に間違っている」と言って良いし、いわゆる「ポストモダン保守」的な、「歴史は物語である」という部分を逆手にとって、「あえてこの歴史を選ぶ」タイプの歴史修正主義も、「決断」をしてしまっている部分で、「公的に」否定していいと思う。
それとも、まだぼくは東の言ってることを読み違えているのだろうか。いや、しかし、技術書ばっかり読んでるせいで、こういうことを考える頭が磨り減ってると実感した。まぁぼくはプログラマであって知識人を目指しているわけでもなんでもないから、別にいいんだけど。って、「私的なことは公的なことである」から、ほんとはよくないんだろうけどさ。
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