2009年3月アーカイブ

空気読まずにフリッパーズ関連のエントリをまた上げる。

http://d.paycle.net/log/2009/03/post-28.html

上のエントリでは「本当のこと」を探し続けた(探し続けている)小沢について書いたけれど、今度は小山田について書く。ぼくは本当に小沢の痛いファンで、小沢のことについてはまったく冷静でいられないのだけれど(上のエントリなんかちょっと気持ち悪いくらいにべったりとベタに感情移入をしてしまっている)、実は音楽性について言えば小沢よりも小山田の方がすばらしいと思っている。

前のエントリではフリッパーズからの延長線で捉える小沢健二について書いた。キーワードは「本当のこと」で、フリッパーズでは「嘘っぱち」のパッチワークをつむいでいた小沢が、「本当のこと」へと向かっていく様子をぼくは見た。そして、今回のエントリでは、フリッパーズからの延長で小山田について書く。

フリッパーズの音楽は、よく知られたように既存のライブラリからの引用のパッチワークの体をなしていた。そのあたりの話は音楽系動画に動画投稿サイトの威力を見た - あるいは、ほんとのことが知りたくて嘘っぱちの中旅をする彼の話がよくまとまっている。ここを見るとわかるように、フリッパーズギターの音楽は、「すでにオリジナル(≒本当のこと)なんて出尽くしてしまってるじゃないか」という諦念とともにあった。それを極めつくしたのが彼らの最後のアルバム「ヘッド博士」だ。

そして、そのヘッド博士を残して解散したフリッパーズだけれど、小山田の1stソロアルバムは、フリッパーズ的な音と歌詞の延長線の上に出来ている。多く人が小山田に「フリッパーズと何が違うんだ」という疑問を投げかけていたし、ぼくも最初に聴いた時、「結局これってフリッパーズだよな」と思った。そして小山田の作品は、「 FANTASMA」まで、フリッパーズの頃と同じ方法論で作られている。引用とコラージュとサンプリング。ただ、FANTASMAで面白かったのが、このアルバムを聴いていると、小山田の音楽というよりも「音そのもの」に対するこだわりが徐々に強くなっていることが明確にわかるのだ。そしてこの傾向がブレイクするのが「POINT」で、このアルバムで小山田は初めて「引用とコラージュ」ではない手法で音楽を作った。そしてこのアルバムは、音楽というよりもむしろ「音」のアルバムだった。それも、そこには紛れもなく「オリジナル」の音が詰まっていた。

思うに、「本当のことを知りたくて嘘っぱちの中旅に」出た小山田も、小沢とは違うやり方で、本当のこと(彼の場合は「本当の音」)を探し続けたのだと思う。その結果が、POINT以降のサウンド・マイスターとしてのコーネリアスなのだろう。そんなわけで、やはりぼくは音楽家としては小沢健二よりも小山田圭吾を尊敬する。

しかし、詩人として本当のことを探し続けた(探し続けている)小沢と、音楽家として本当のおとを探し続けた(探し続けている)小山田が一時でも一緒に曲を作って、歌っていたということ、しかもこのふたりが「無色の混沌」として分かちがたいひとつの音楽を作っていたというのは本当に、幸福な奇跡のようなものだと、フリッパーズの痛いファンのぼくはどうしても思ってしまう。

はい、小沢健二にかこつけたうざい自分語りが始まるよー!嫌いな人は今すぐゴーバック!

中二病ぽくて非常に恥ずかしいのだけれど、上に挙げた三人は、ぼくが人格を形成するにあたって強すぎる影響を与えた人(キャラクタ)だ。

以前小沢健二の2万字インタビューへリンクを貼ったことがあるが、再掲する。

小沢健二2万字インタビュー

この小沢から、ぼくは彼の寂しさを感じてしまう。小沢が何度も「だから小山田に『嫌いだった』って言われると傷つくんだけど」と言っているのを見て、「たぶんN子ちゃんの代わりに現れたのは小山田だったと思うんだけど」と言っているのを見て、彼にとって小山田の存在がどれだけ救いになっていたのかということを考えざるを得ない。

小沢はフリッパーズの頃に、何度も「本当のことなんて何もない」「ぼくが言っているのは全部でたらめ」というような歌詞を書いているし、一枚目では「those golden words well-tried i wonder why my tongue is tied i don't care if you call it prayer or fate」という歌詞も書いている。自分の、あるいは世界のどこかに「本当のこと」があることを感じながらも、それにアクセスできない不能感のようなものをここから感じる。そんな感じ方をしている人間はたぶん、「本当の友達」というものに対してもある種アンビバレンツな感情を持っているんじゃないかとぼくは思う。その感情は多分「本当のこと」に微塵も興味を持たないようなクラスメイトに対する苛立ちとなったりするだろう。そんな中で、「本当のことを知りたくて嘘っぱちの中旅に出る(ドルフィン・ソングより)」感覚を共有できたのが、小山田圭吾だったのではないだろうか。ぼくの想像ではあるけれど、小沢にとって小山田は一時期、本当の救いとして機能していたのだと思う。

でも、その小山田とも喧嘩別れしてしまった小沢の、ものすごい寂しさと、「結局ひとりなんだ」という諦めから来る一種の躁っぽさみたいなものを、ぼくは小沢の書く詩と、このインタビューからどうしても感じてしまうのだ。

ところで、「本当のこと」や「本当の関係」を狂おしいほどに希求しながらも、どうしてもそこにアクセスできない、その苛立ちから周囲を過剰に否定したり過剰におどけてしまう(王子様としての小沢健二の完成度とやけっぱち加減よ!)という病理(これはもはや病理と呼んでいいと思う)を抱えたキャラクターといえば、「ライ麦」のホールデンなんかもその類型だと言えるし、太宰にもそういう傾向があるとぼくは思う。そして、彼らは全員が、その苛立ちをなんらかの方法で外に向かって叫んでいる。そして多分その叫びは、似たような寂しさや苛立ちを感じているひとに、「すとん」と届くんだと思う。

少なくともぼくはそうだった。小沢も、太宰も、ホールデンも、ぼくにとっては救いだった。それは本当のことだ。でも、ぼくはどうしても思わずにいられない。「ぼくを救ってくれた彼らを救う人たちはだれなんだろう?」太宰は死んだ。サリンジャーは引きこもった。では、小沢は?

小沢は今行っている運動(反グローバリズムとか)に対するストイックさを見るに、多分小沢が見ている「本当のこと」は、その運動の先にあるのだろう。ぼくの政治的な立場はエコ活動や反グローバリズムに近いところにあるわけだけれど、それでも、ぼくは小沢の「運動の仕方」を見るに、「正義(や本当のこと)を求めるあまり排他的になる」という構造を見てしまう。そしてその先に本当に救いはあるのだろうか? 「本当のこと」を求めすぎてしまう気持ちの先には、どうしても喪失しかないようにぼくは思ってしまうのだ。それこそ、福田章二が『喪失』で鮮やかに描いたように。

関連エントリ
http://art.way-nifty.com/ysk/2007/12/post_f778.html
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090317/1237292418

あと小沢の元ネタ集もついでに再掲しとく。
http://d.paycle.net/log/2009/03/betty-wright5bokker-t-the-mgs.html

先週末はなんか彼女が大学を卒業したからお祝いをしたり後輩で友人のひととホワイトデーのおかしを交換したりジャニスにCD借りにいったり秋葉原でラノベを買ったり小沢健二の2万字インタビューやそこから垣間見える彼の寂しさと小山田の存在がどれだけ小沢にとって大きかったかということなんかについて熱く語ったりしていてぼくってホント気持ち悪い小沢信者だなーって落ち込んだりしてた。

ジャニスで借りたCDは、AkufenとStrawberry SwitchbladeとSonny Jというひとのアルバム。

最近エレクトロニカ入門した猫型はクリックに興味を持ちはじめて、そんなわけで定番っぽいAkufenを借りました。HITOKOTOで言ってあたり。

上のがAkufenの動画だけれど、これ「star fruits, surf rider」サンプリングしてないか?

次Strawberry Switchblade。インディーズ時代の作品をアズテック・カメラがサポートしてます。といえばわかるように、ネオアコの文脈で出てきたひとたち。当時のネオアコのグループには良くある話だけれど、Strawberry Switchbladeもオリジナルアルバム一枚を残して消えてます。ネオアコをまじめにきちんと聞いてきていないのはほんとフリッパーズ信者としてはおかしな話なのでネオアコもまじめに聞き始めようと思う。

Sonny Jはまだちゃんと聴いてない。普通っぽい。

<追記>
ラノベについて書き忘れた。買ったのは「文学少女と死にたがりの道化」。友人に以前薦められていたのだけれど、小さい書店だと置いてなかったのでとらのあなで買った。

小説を読む快楽のうちのひとつに、「ぐるんと裏返る瞬間」というものがあるとぼくは思っているのだけれど、この作品はそういう快楽をちゃんと与えてくれるのが良かった。ぐるんと裏返る快楽ってのがどういうのかと言うと、たとえばSFならば「現在自分が置かれている社会の文脈や意味が、SFの装置を通すことによってまったく意味の異なったものとして現れてくる」みたいなことだし、ミステリならば「真相を知ったとき、今まで語られてきた言葉の意味ががらっと様相を変える」みたいな快楽。主人公が最後に「正しいことなんてわかんないけど俺はこの俺の判断を信じる!!」的な行動をとるあたりがかなりラノベのテンプレではあるのだけれど、おもしろい作品だった。ただし、キャラには萌えない。べつに今回は萌えを求めて読んでないからいいんだけど。いいんだけど!いいんだけど!!!!!

みなさん、ベティ・ライトってご存知?マイアミのソウル・シンガーで、日本では小沢健二の「ラブリー」の元ネタとして有名。日本で発売されているベストアルバムの名前も「ラブリー」。では最初の比較動画。

これはすごいw。もうね、元ネタっていうか完全に「カヴァー」ですよね。小沢健二の初期2枚のオリジナル・アルバム「犬はほえるがキャラバンは進む」と「LIFE」には、こういう「元ネタまんま」ってのが多いのです。「LIFE」のジャケットのデザインもスライ・アンド・ザ・ファミリーストーンの「LIFE」まんまだしね。

というわけで今回は小沢健二元ネタ紹介です。

「ドアをノックするのは誰だ?」

ようつべでいい動画が見つからなかったのでニコニコで。ライブ音源でまさかの出オチです。これもそっくりどころかもはや同じ曲。

「さよならなんて云えないよ」

イントロが一緒。これについては「偶然」レベルでもあるのだけれど、小沢健二がなんかの番組でイントロクイズやってるときがあって、その際自分の「さよならなんて云えないよ」が問題として出たのだけれど、そのクイズに小沢健二が即答した回答が「マイケル・ジャクソン/ブラックオアホワイト!」。天然で自分からネタばらししてました。

「カウボーイ疾走」

ベースラインが全体的に似ているのだが、booker T & the MG'Sのほうの動画の2:47~のフレーズが、小沢健二カウボーイ疾走の間奏(1:53~)にそのまま使われている。

とりあえず「まんまだなオイ!」ってのはぼくが知ってる限りではこれくらい。しかし今回動画をあさっていて思ったのだが、小沢健二のライブでの歌が意外とうまい。完全に計算された歌い方。すばらしい。声で損してるよなー。

こういう「フレーズ拝借系」ってのはもともとはHIP HOPのひとたちのやることだった(デラソウルがスティーリー・ダンのPegをそのまま使ってたり)わけだけれど、小沢健二や電気グルーヴなんかもこの時期そういうことをしていたんですね。この手の「元ネタ探索」ってのは結構面白くて、あたしい音楽を聴き始める契機になったりもする。みんなも好きなアーティストの元ネタ探索してみませんか?ミスチルの元ネタとかも多分探索すると面白いと思う。

おまけ。電気グルーヴの元ネタ探索。これは有名。

ぼくはもはや文学とか批評とかって全然メインにしてないし、新刊だって追ってないんだけど、「そういえばゼロアカってどうなったかなー」なんて思ってチェックしたら、もうだいぶしぼられてきてるんですね。

http://shop.kodansha.jp/bc/kodansha-box/zeroaka/kanmon_05.html

上記URLの動画をざっと見ましたが、この中では三ツ野陽介氏、峯尾俊彦氏、村上裕一氏の三氏の本が面白そうですね。一番好みなのは村上裕一氏かな。

誰が得するんだよこれ...。しかしまぁ、パンクがかなり権威主義になってる現在、ある意味正しくパンクとも言える。ところどころ「それってパンクか?」という選曲も混じっていますね。Smells Like Teen Spirit / 後藤邑子(Nirvana)とか。でもSmells Likeは普通にいいアレンジになってるな。この手の音楽は構造が単純だからアレンジ甲斐があるだろうなー。

あと、みなさんご存知かと思いますが、Basket CaseとGod Save The Queenを歌っている池澤春菜嬢のお父様は池澤夏樹氏なんですよー。

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都内在住プログラマ。男子。

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