2009年8月アーカイブ

この前のエントリの続き。自分語りは「物語化」という意味ですべて個人史の捏造であり、そうである以上「自分騙り」にしかならないことを承知の上で、自分騙りとしゅごキャラ!の話。

えー、しゅごキャラ!のあむちゃんはわかりやすくツンデレです。というわけで、ツンデレについて復習しましょう。

俺定義で申し訳ないですが、ツンデレとは、「コミュニケーション不全の受け手にとってもっとも都合のいいキャラクタ」です。つまり、「口では『あんたなんか大嫌い』と言っておきながらもホントは俺のことが大好きなんだろ」っていう、ストーカーやセクハラ野郎にも似た欲望の対象として、ツンデレというのは非常に「都合がいい」。ゆがんだ自己愛を守る「鎧」として、ツンデレっていうロジックは最強。だっていくら罵られたって相手はぼくのこと好きなんだから。そういうわけで、少なくともぼくの観測範囲内では、「ツンデレ」が出てくる作品において、ツンデレはほんっとに「都合よく」描かれていることが多い。

話がちょっと脱線するのだけれど、そういう意味でTVシリーズおよび旧劇のエヴァのアスカは「ツンデレ」かどうか非常に微妙な気がする。アスカがシンジを許容しているのか拒絶しているのか、はっきりとは描かれていない。けれど、これはぼくの解釈だけれど、あの最後の「気持ち悪い」は、はっきりとした拒絶だと、ぼくは思う。旧劇エヴァにおいて、アスカはシンジにとって、拒絶の象徴ですらあると思う(さらにアスカ自身も「だれからも肯定されない」という絶望に「食われて」しまう救いの無さよ...)。そして、シンジがあのテンパりまくって痛がりまくってる中で、拒絶の象徴であるアスカをアンビバレンツながらにも「もう一度会いたいって思ったんだ」と言う、でも結局拒絶される、というあたりに、旧劇エヴァの(ぼくにとっての)リアリティがある。そんなわけで、新劇場版で、シンジだけじゃなくてミサトにまであからさまにデレてるアスカを見たときのぼくの失望と言ったら。それこそ庵野監督に対して「裏切ったな!ぼくの気持ちを裏切ったな!」と叫びたいくらいだった。もちろん、この気持ち自体がオタクにありがちな、物語や他人に過剰に自己を投影してしまって自分と他人の区別がつかなくなってしまうクソな所作ではあるのだけれど。

あと、今アフタでやってる「百舌谷さん逆上する」っていう漫画は「都合よく書かれるツンデレ」に対するアンチテーゼみたいな作品で、めちゃめちゃおもしろいのでみんな読むべき。

話を元に戻します。で、しゅごキャラ!においてあむちゃんがどう描かれてるかというと、まぁこれはわかりやすくツンデレなのだけれど、そのまなざしの方向が、通常と逆なんですね。つまり、たとえばハルヒを例にとればわかりやすいんだけど、ハルヒのツンデレはキョンにとって都合がいい。つまり、「アイツはなんだかんだ言ってホントは俺のこと好き」っていう視線で描かれてる。一方でしゅごキャラ!がどうかと言うと、むしろツンデレ側の視点でキャラクタが描かれるんですね。「ツン」と「デレ」のギャップを、外部からの観察じゃなくて、主人公自身の葛藤として描いている。そのあたりはちょっと「百舌谷さん」に通じるところがあるかも(「百舌谷さん」は自覚的にこのテーマを扱っているので、テーマに対する掘り下げかたの深さで言ったら雲泥の差だけど)。

こういう描かれ方をしたツンデレって、今までのぼくの観察範囲ではあまり見かけない(ヌルオタなのであんまりたくさんの作品に触れてないんだけどさ)。で、そのギャップにストレートに悩むあむちゃんがかわいすぎて、もうぼくの脳は限界を迎えて「あぁぁぁ白ニットワンピのあむちゃんかわいいよう」「あぁぁぁあむちゃんのうなじ最高だよう」「あむちゃんにひざまくらされた上に夜の遊園地でデートとか、イクト爆発しろ!」などと前後不覚に陥っているとしか思えないことを繰り返し言い出す始末なんで、もう本当にこのひとはどうしようもないですね。

...ええと、気を取り直してもう一度話を元に戻します。そんなわけで、しゅごキャラ!はツンデレの子が「ツン」と「デレ」の間、つまり「見られる自分」と「自己認識の自分」の間を行ったりきたりしながらその二つの自分の調和を図る物語として読めるのです。自己認識と「見られる自分」のギャップに悩んでしまったときに、自分のしゅごたまに「バツ」がついてしまった(この作品中では自分を見失った、ということを意味する、のではないかな)ということは、その象徴ではないかな。この前のエントリでも言ったけれど、この作品、「見られる自分」と「自己認識」の間の調和という問題に対する解をめぐる物語なんですね。

で、やっぱりぼくはその解が「恋愛」とか「女性性」とか「男性性」に回収されてしまうことに対して、異を唱えたい。そういう欲望がぼくにはある。なぜそういう欲望がぼくにあるかといえば、これはぼくはいまだに「非モテ的心性」から脱却できていないからだ。

話がバラバラとこぼれてしまわないように、ここで言う「非モテ的心性」っていうのがどういうものかってのを最初に明らかにしとくけど、ぼくが言う「非モテ的心性」っていうのは、自己承認欲求をこじらせて、他人との距離のとり方に問題を抱えてしまった心性のこと。勝手に相手に自分の「全肯定」を求めて、それが得られないことに対して勝手に絶望する。勝手に他人に期待して勝手に絶望する。「裏切ったな!ぼくの気持ちを裏切ったな!」のセリフに集約される、自分勝手な自己承認欲求が満たされなかったことを相手への攻撃性へ転化してしまう心性。ほんとうに「気持ち悪い」ですね。

しかし、このこじれた自己承認欲求を「非モテ」という「恋愛用語」で語ってしまうこと自体が、ぼくが「恋愛という物語」のみを「真に物語たる物語」として措定していることの現れなんではないか? 別の言い方をすると、自己承認欲求や「見られる自分」と自己認識の齟齬を解決する物語として、なぜ恋愛だけが特権的な地位を得ているのか? 雑誌、漫画、アニメ、小説、いろんなメディアで自己承認欲求やアイデンティティの解が「恋愛」という形で書かれまくっている。それはもう、うんざりするくらいに。

でも、見られる自分と自己認識の間で苦しんで、それを他人への攻撃性(裏切ったな!ぼくの気持ちを裏切ったな!)に転化してしまうぼくのようなクソ人間の救いは、ほんとうに「恋愛」以外にありえないのか? もしそれ以外にありえないのだとしたら、「非モテ」はどうすればいい? そういう閉塞感をぼくは持っている。だからこそ、見られる自分と自己認識の間で苦しんでいるあむちゃんの「答え」は、恋愛や女性性に回収されないでほしかった。もちろん、それさえもぼくの自分勝手な欲望でしかないのだけれど。

と、ここまで書いてきてちゃぶ台をひっくり返すようなことを言うんだけど、じつはぼく自身はこういう葛藤から今けっこう救われていて、その救いが恋人の存在であるという、ちょっとエー! おまえ今までグダグダ書いてきたのはなんなんだよ! って感じのオチがある。

でも、やっぱりぼくは「自分は幸運だった」としか言えない。今はたまたま彼女の存在に救われているけれど(感謝してる)、「そうではなかったかもしれない自分」のことを考えるとき、ぼくの心はズキズキと痛み、「外界全体」に対する憎悪のような気持ちがむくむくと頭をもたげてくる。「恋愛や男性性によって救われなかったぼく」をいまだに心の中に飼っているぼくは、やっぱりどうしても「恋愛こそ物語であり答え」っていう風潮や作品に対して、憎悪を隠すことができないみたいだ。もはやこれはぼくの一種の「病気」かもしれない。

そしてこの「ホントの自分」をめぐる病気が、以前書いた「小沢とサリンジャー(というよりホールデン)と太宰」というエントリになって表れたりするんですね。救いようがない。

追記:こういう文章を書いてしまう時点で、「だから私を見て!」とテンパって叫んでいるようなものだ。救いようが無い。

と、いきなり酷いタイトルですがまじめなエントリです。ところで世間は夏コミですね。ぼくは発熱してて行けません。

さて、近所のGEOが旧作DVD100円セールをやっているので、最近は気になっていたアニメを借りまくっています。で、ぼくのtwitterをfollowしている人は知っているかもしれませんが、その中でもぼくが今ハマりすぎなのが「しゅごキャラ!」というアニメでございます。そんなわけで、今日は「しゅごキャラ!」について。

どんな作品なのかはとりあえずWikipedia参照のこと。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%94%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9!

ひとことで言うと、「ほんとの自分」とか「なりたい自分」を探す物語で、つまり古今東西いろんなメディアで繰り返されてきた、「自分のアイデンティティを探しながら成長していく物語」です。主人公のあむちゃんがかわいすぎて、コミックスを大人買いしました。アニメはまだ見てる途中。

ところで、この作品、登場する主要キャラクター全員(「敵」側にも)に、自分のアイデンティティをめぐる物語がきちんと用意されていて、大人が読んでも結構面白い作品だと思うのですが、世間的には小学生くらいの女子と、いわゆる「大きなお友達」向けの作品として認知されてますね。とても残念。まぁ「大きなお友達」であるところのぼくがこんなこと言ってもなんも説得力ないんですけど。

そんな面白い「しゅごキャラ!」なんですが、正直言ってちょっと残念な部分がある。で、その部分を語る前にふたつのエントリを読んでください。

801が好きな理由・受キャラに萌える理由

font-daさんのはてなハイク

ぼくは女性でもなければクィアでもない、「ストレートの男性」である以上、801をめぐるいわゆる「腐女子」のアイデンティティについて語る資格をそもそも持たないし、いわゆる「腐女子」ひとりひとりにはひとりひとりの物語、個人史があり、ひとりひとりがそれぞれのアイデンティティをめぐる物語の「主人公」であるということを前提に、それでも、自分のアイデンティティと、ジェンダー的な意味での「女性性」の間のギャップから、801を「必要とする」女性が少なくない数いるのではないか、と最近ぼくは思うようになった。

で、しゅごキャラ!である。以下ネタバレ注意。物語がクライマックスを迎える8,9巻あたりで、あむちゃんが自身のアイデンティティをめぐる葛藤の答えを出していくんだけど、その答えが結局のところ「女の子であること」に回収されちゃってるんです。「男の子がいろんな『ゆずれないもの』のために戦ってぼろぼろになるなら、女の子であるあたしはせめてそれを抱きしめてあげたい。それがあたしのこたえ」って、エー! みたいな。いや、それはそれで魅力的なお話なんですよ。ベタだし、鉄板だし、やっぱり美しいし、燃えるし。でもさ、せっかく「ひとりひとりにアイデンティティをめぐる物語があって、その物語、つまり個人史においてはひとりひとりが主人公であって、ひとりひとりに別の悩みがあって、答えがある」って物語を書いてたのに、結局あむちゃんのアイデンティティは女性性に回収されるんですか! みたいな、ガッカリ感。

自分のアイデンティティが自分の性に立脚することっていうのは、決して悪いことではない、とぼくは思う。のだけれど、自分のアイデンティティと男性性/女性性の間にギャップを感じないですむということは、「幸運なこと」なのだということはあると思う。そういう意味で、あむちゃんは幸運な主人公だ。

でもさー、せっかく「なりたい/ほんとうのあたし」と「外から見たあたし」っていうテーマを扱ってるのに、その答えが単純な女性性に回収されちゃうって、もったいなくないか? 女性性に回収しなければ、もっと広がりと奥行きのある物語になるのに。あるいはこれが「メジャー少女漫画」の限界なのか?

と、ジェンダー的な視点から見ると結構残念な感じになっちゃうんですけど、「なりたい/ほんとうの自分」ってのが明示的に「キャラ」として表象されて、それが違和感なく多くの人に受け入れられているということには象徴的な意味を見出すことが可能だし、面白いですよ、しゅごキャラ!。

と、まぁくどくどといろいろ書いてきましたが、そんなことはあむちゃんがかわいいという絶対的な真理の前にはどうでもいいことなのです。風呂上りパジャマのあむちゃんにひざまくらされたい。

この前友達と話してたのだが、90年代の代表的な曲といったら「smells like ~」なのである。評価する、しない、あるいは好き、嫌いは置いておいて、たとえ嫌いだとしても、あるいはたとえ評価しないとしても90年代はニルヴァーナであり、ニルヴァーナと言えばsmells likeなのである。異論は認めない。

かくいう僕も、ニルヴァーナなんて別に好きじゃないんだけど(とか言いつつ高校時代はグランジっぽいバンドのドラマーだったことはちょっとした黒歴史だ。しかもバンド名がダサかった。しかしあの頃やっていたバンドのギタリストはどうしただろう。いいやつだったしギターも上手かった。)、ただ、90年代には音楽に「文脈」というものが存在した。それぞれのバンドはそれぞれの文脈を受け継いだ音楽をやっていたし、書こうと思えば「系譜図」のようなものが書けた(たとえばズボンズはコンテンポラリーなブラックミュージックを翻訳した邦楽バンドだったしね)。

ところで、90年代、日本で面白いことを言っていた人間というと、ぼくは宮台と東の二名を思い浮かべる。この二人に無理やり共通点を見つけるとすれば、それは「大きな物語」をめぐる姿勢と言う事ができる気がする。つまり、こんなこと今の批評的には常識的ではあるけれど、ゼロ年代というのは「みんなが共有している前提」というものを失った世代である、という認識だ。

90年代はまだ、みんなが共有している大きな「物語」が存在した。ありていに言えば、ぼくたちはTVにおいて同じ番組を見て、同じ音楽を聴いて(当時の音楽におけるオリコンチャートの異常さ、気持ち悪さと言ったら!)、同じTVゲームをプレイして、学校のクラスの中で「必ず共有できる話題」を持っていたのだ。

一方、2000年を過ぎたあたり、つまりゼロ年代に入ってからのぼくたちと言ったらどうだろう。ゼロ年代の音楽(あるいは芸能、ゲーム)において、「全員が共有している(と多くの人に思われている)」ものは、90年代に比べて明らかに減少している。みんなが同じ物語を共有しているという幻想(あえてここでは幻想と言い切ってしまおう)は、ゼロ年代において壊れてしまった。

あるいは、別の角度からはこういう言い方もできる、90年代、インターネットはまだ「エリート」のものだった。Windows95がリリースされた頃、ようやくインターネットは市民のものとなりつつあった。でも、その時代に自分のサイトを持っているような「インターネットオタク」は少数だった。それゆえ、自分のサイトを持っている人間同士には奇妙な連帯感が生まれ、当時サイトを開設していた人間には「相互リンク」という形で「インターネット全体」というものにアクセスできる感覚が、錯覚にしろあったことは間違いない。こういう「全体へアクセスする」という感覚。これはゼロ年代においてはなくなってしまった感覚だと思う(蛇足的に言えば、テキストサイトの隆盛はこの運動に連動しているとも言えるとぼくは思う)。

こうして見てきたように、ゼロ年代というのは、それまでの「文脈」あるいは「伝統」、ありていに言えば「大きな物語」と切り離された年代だと言うことができる(こんなこと、批評の文脈ではいまさらすぎるくらいにいまさらなことだけれど)。

と、ここまで語っておいてなんだが、さて、ここまでは長すぎる前説である。ぼくにとってのフリッパーズギター(あるいは渋谷系)について、ようやくここで語り始めよう。

前に見たように、90年代はまだ「文脈」というものに接続していた時代だった。この時代において、ポピュラーミュージックの文脈の中で「自身のバンドがどの位置に属するか」ということは、自身の音楽性のアイデンティファイにおいてかなり大きな意味を持っていた。つまり、自身の音楽性がどの「伝統」に属するものなのか。それがかなり大きなウェイトを占めていたのが90年代の邦楽だとぼくは言ってしまいたい(いまでもその「てい」のバンドは多いのだけれど。具体名は挙げないけれど)。

一方、フリッパーズギターやピチカートファイブに代表される「渋谷系」と評される音楽がどういう態度で音楽に臨んでいたかを考えると、実はこれは大変興味深いのだ。「渋谷系」の特徴のひとつとして、「既存の音楽をデータベースとして扱う」という態度がある。つまり、今まで脈々と受け継がれてきた音楽の「文脈」をフラットに再構成して、「古い音楽も新しい音楽も同等の『ライブラリ』、あるいは『音ネタ』として扱う」という態度だ。伝統や「物語」なんて関係なく、既存の音楽を「データベース」として引用し、文脈とは無関係に再構築する。そういう態度が「渋谷系」には存在していた。

「文脈」や「歴史」を無化し、あらゆるアーカイヴを並列に扱う姿勢。これってまさに、ゼロ年代的な姿勢と言ってもいいとぼくは思っている。そういう意味で、フリッパーズギターやピチカートファイブは「早すぎた才能」として生まれてしまったユニットなのではないかと、ぼくは思っている。

久々のエントリは、以上のようなお話でした。とっぺんぱりのぷう。

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都内在住プログラマ。男子。

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