この前のエントリの続き。自分語りは「物語化」という意味ですべて個人史の捏造であり、そうである以上「自分騙り」にしかならないことを承知の上で、自分騙りとしゅごキャラ!の話。
えー、しゅごキャラ!のあむちゃんはわかりやすくツンデレです。というわけで、ツンデレについて復習しましょう。
俺定義で申し訳ないですが、ツンデレとは、「コミュニケーション不全の受け手にとってもっとも都合のいいキャラクタ」です。つまり、「口では『あんたなんか大嫌い』と言っておきながらもホントは俺のことが大好きなんだろ」っていう、ストーカーやセクハラ野郎にも似た欲望の対象として、ツンデレというのは非常に「都合がいい」。ゆがんだ自己愛を守る「鎧」として、ツンデレっていうロジックは最強。だっていくら罵られたって相手はぼくのこと好きなんだから。そういうわけで、少なくともぼくの観測範囲内では、「ツンデレ」が出てくる作品において、ツンデレはほんっとに「都合よく」描かれていることが多い。
話がちょっと脱線するのだけれど、そういう意味でTVシリーズおよび旧劇のエヴァのアスカは「ツンデレ」かどうか非常に微妙な気がする。アスカがシンジを許容しているのか拒絶しているのか、はっきりとは描かれていない。けれど、これはぼくの解釈だけれど、あの最後の「気持ち悪い」は、はっきりとした拒絶だと、ぼくは思う。旧劇エヴァにおいて、アスカはシンジにとって、拒絶の象徴ですらあると思う(さらにアスカ自身も「だれからも肯定されない」という絶望に「食われて」しまう救いの無さよ...)。そして、シンジがあのテンパりまくって痛がりまくってる中で、拒絶の象徴であるアスカをアンビバレンツながらにも「もう一度会いたいって思ったんだ」と言う、でも結局拒絶される、というあたりに、旧劇エヴァの(ぼくにとっての)リアリティがある。そんなわけで、新劇場版で、シンジだけじゃなくてミサトにまであからさまにデレてるアスカを見たときのぼくの失望と言ったら。それこそ庵野監督に対して「裏切ったな!ぼくの気持ちを裏切ったな!」と叫びたいくらいだった。もちろん、この気持ち自体がオタクにありがちな、物語や他人に過剰に自己を投影してしまって自分と他人の区別がつかなくなってしまうクソな所作ではあるのだけれど。
あと、今アフタでやってる「百舌谷さん逆上する」っていう漫画は「都合よく書かれるツンデレ」に対するアンチテーゼみたいな作品で、めちゃめちゃおもしろいのでみんな読むべき。
話を元に戻します。で、しゅごキャラ!においてあむちゃんがどう描かれてるかというと、まぁこれはわかりやすくツンデレなのだけれど、そのまなざしの方向が、通常と逆なんですね。つまり、たとえばハルヒを例にとればわかりやすいんだけど、ハルヒのツンデレはキョンにとって都合がいい。つまり、「アイツはなんだかんだ言ってホントは俺のこと好き」っていう視線で描かれてる。一方でしゅごキャラ!がどうかと言うと、むしろツンデレ側の視点でキャラクタが描かれるんですね。「ツン」と「デレ」のギャップを、外部からの観察じゃなくて、主人公自身の葛藤として描いている。そのあたりはちょっと「百舌谷さん」に通じるところがあるかも(「百舌谷さん」は自覚的にこのテーマを扱っているので、テーマに対する掘り下げかたの深さで言ったら雲泥の差だけど)。
こういう描かれ方をしたツンデレって、今までのぼくの観察範囲ではあまり見かけない(ヌルオタなのであんまりたくさんの作品に触れてないんだけどさ)。で、そのギャップにストレートに悩むあむちゃんがかわいすぎて、もうぼくの脳は限界を迎えて「あぁぁぁ白ニットワンピのあむちゃんかわいいよう」「あぁぁぁあむちゃんのうなじ最高だよう」「あむちゃんにひざまくらされた上に夜の遊園地でデートとか、イクト爆発しろ!」などと前後不覚に陥っているとしか思えないことを繰り返し言い出す始末なんで、もう本当にこのひとはどうしようもないですね。
...ええと、気を取り直してもう一度話を元に戻します。そんなわけで、しゅごキャラ!はツンデレの子が「ツン」と「デレ」の間、つまり「見られる自分」と「自己認識の自分」の間を行ったりきたりしながらその二つの自分の調和を図る物語として読めるのです。自己認識と「見られる自分」のギャップに悩んでしまったときに、自分のしゅごたまに「バツ」がついてしまった(この作品中では自分を見失った、ということを意味する、のではないかな)ということは、その象徴ではないかな。この前のエントリでも言ったけれど、この作品、「見られる自分」と「自己認識」の間の調和という問題に対する解をめぐる物語なんですね。
で、やっぱりぼくはその解が「恋愛」とか「女性性」とか「男性性」に回収されてしまうことに対して、異を唱えたい。そういう欲望がぼくにはある。なぜそういう欲望がぼくにあるかといえば、これはぼくはいまだに「非モテ的心性」から脱却できていないからだ。
話がバラバラとこぼれてしまわないように、ここで言う「非モテ的心性」っていうのがどういうものかってのを最初に明らかにしとくけど、ぼくが言う「非モテ的心性」っていうのは、自己承認欲求をこじらせて、他人との距離のとり方に問題を抱えてしまった心性のこと。勝手に相手に自分の「全肯定」を求めて、それが得られないことに対して勝手に絶望する。勝手に他人に期待して勝手に絶望する。「裏切ったな!ぼくの気持ちを裏切ったな!」のセリフに集約される、自分勝手な自己承認欲求が満たされなかったことを相手への攻撃性へ転化してしまう心性。ほんとうに「気持ち悪い」ですね。
しかし、このこじれた自己承認欲求を「非モテ」という「恋愛用語」で語ってしまうこと自体が、ぼくが「恋愛という物語」のみを「真に物語たる物語」として措定していることの現れなんではないか? 別の言い方をすると、自己承認欲求や「見られる自分」と自己認識の齟齬を解決する物語として、なぜ恋愛だけが特権的な地位を得ているのか? 雑誌、漫画、アニメ、小説、いろんなメディアで自己承認欲求やアイデンティティの解が「恋愛」という形で書かれまくっている。それはもう、うんざりするくらいに。
でも、見られる自分と自己認識の間で苦しんで、それを他人への攻撃性(裏切ったな!ぼくの気持ちを裏切ったな!)に転化してしまうぼくのようなクソ人間の救いは、ほんとうに「恋愛」以外にありえないのか? もしそれ以外にありえないのだとしたら、「非モテ」はどうすればいい? そういう閉塞感をぼくは持っている。だからこそ、見られる自分と自己認識の間で苦しんでいるあむちゃんの「答え」は、恋愛や女性性に回収されないでほしかった。もちろん、それさえもぼくの自分勝手な欲望でしかないのだけれど。
と、ここまで書いてきてちゃぶ台をひっくり返すようなことを言うんだけど、じつはぼく自身はこういう葛藤から今けっこう救われていて、その救いが恋人の存在であるという、ちょっとエー! おまえ今までグダグダ書いてきたのはなんなんだよ! って感じのオチがある。
でも、やっぱりぼくは「自分は幸運だった」としか言えない。今はたまたま彼女の存在に救われているけれど(感謝してる)、「そうではなかったかもしれない自分」のことを考えるとき、ぼくの心はズキズキと痛み、「外界全体」に対する憎悪のような気持ちがむくむくと頭をもたげてくる。「恋愛や男性性によって救われなかったぼく」をいまだに心の中に飼っているぼくは、やっぱりどうしても「恋愛こそ物語であり答え」っていう風潮や作品に対して、憎悪を隠すことができないみたいだ。もはやこれはぼくの一種の「病気」かもしれない。
そしてこの「ホントの自分」をめぐる病気が、以前書いた「小沢とサリンジャー(というよりホールデン)と太宰」というエントリになって表れたりするんですね。救いようがない。
追記:こういう文章を書いてしまう時点で、「だから私を見て!」とテンパって叫んでいるようなものだ。救いようが無い。
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