2009年11月アーカイブ

というわけで(どういうわけだ)最近きづきあきら+サトウナンキづいています。

先日は「いちごの学校」に言及したわけですが、きづきあきらに言及するなら「ヨイコノミライ」は避けて通れないだろ、という声が聞こえるんです。自分の頭から。そんなわけで、「ヨイコノミライ」についても書いておく。またもネタバレ気にせず書くので、ネタバレが嫌なひとは以下読まないほうがいいと思います。

とは言え、正直ぼくは「ヨイコノミライ」についてはあまり語ることができない。というか、直視することが辛いのですよ。よく「ヨイコノミライ」のレビューでは「痛い」だとか、「身に覚えのある痛さがいたたまれない」とか、「オタクならば通ってきた道が描かれてる」みたいなことが書かれているのだけれど、なんかもうぼくにとってはそういうもんじゃないんだよ。登場するオタクたちが抱えている問題は未だにぼくが抱え続けているメンタリティで、とてもじゃないけど「あー、痛いよねー」って客観視するなんてできない。目が滑って読めない。まあそういうマンガ。だからぼくは「痛いオタク」あるいは「オタクの痛さ」みたいな視点についてはちょっと沈黙させてもらう。そこについてはまったく冷静でいられないから。

じゃあ何について話そうかといったら、それはヒロイン(まあぼくの中ではヒロインは桂坂さん一択なんですけどね!)の青木杏さんで、このひとはいわば作品中で「トリックスター」の役割を果たしているのだけれど、その役割ゆえか、あまり彼女にフォーカスした感想って見ないんですよね。今回は彼女にフォーカスした感想を。普段ポストイット張りながら漫画読んだりしないんだけど、今回このエントリ書くためにポストイット使って読んでしまったよ。

さっきも書いたけど、青木さんは「トリックスター」で、「ぬるま湯」に浸かってたオタクたちを引っ掻きまわして「夢潰し」をして「ぬるま湯」をぶっ壊す(それにより、各オタクたちも変化を余儀なくされる)のだれけど、その動機に触れてる感想をぼくはあまり見ない(まあ、オタクたちのエピソードの印象が強すぎるので、青木さんはある意味目立たないのだ。だからしょうがないと言えばしょうがない)。

でもさ、いくら「あいつらムカつくなー」「ぬるいなー」と思っても、わざわざそいつら「つぶしにいく」って、相当ぶっとんだ思考だよ? そこには「むかつく」なんてもんじゃなくて、もっと強い動機があってもおかしくないはず(という考え方自体が非常に合目的的というか、近代的で「物語論」的な考え方、読み方ではあるけれど、ここではそれは措く)。というわけで、このエントリでは「トリックスター」という「役割としての青木さん」ではなくて、「いち個人としての青木さん」の気持ちを軸に「ヨイコノミライ」を読みます。

まず押さえておきたいのが、青木さんの設定。Wikipediaが結構よくまとまってるので引用します。

普段学校に来ない「保健室の姫」といわれている少女。実は漫画編集者の父親の命令で漫画を描いて新人賞の賞金稼ぎをしており、それゆえ漫画を嫌い、口ばかりのオタク揃いの漫研を「ゴミのようなただの『消費者』」と見下し、その崩壊を進める為に漫研による同人誌作成を発案し、裏で彼らをぶつけて暗躍する。

ヨイコノミライ(Wikipedia)

まあこうやってみると結構トンデモな設定ですよねやっぱり。いくら親に無理やりマンガ書かされてる(これも結構トンデモ...ってわけでもないか。音楽とかではよくある話だし)からって、わざわざ漫研つぶす必要はないだろ、っていう。

では彼女はなぜそんな「夢つぶし」みたいなことを「趣味」にしてるのか。あるいは彼らをつぶすことで何を思うのか。

実は青木さん、物語の中でたまに本音や迷いのようなものを口にします。たとえば過去の漫研の部誌を(勝手に)焼却炉に持っていくシーン。

青木:「...先生?...なんで人間は、もう何の意味も持たないものまでしつこく取っておきたがるんでしょうね?」

先生:「意味...か。そうだな、モノの価値っていうのは使用価値だけじゃないんだ。具体的に役に立つものじゃなくても記憶や知識から価値を見出すことがあるんだよ。爪切りと家族の写真の価値ってのは違うところにあると思わんか?」

青木:「......そうですか。でも先生、そうしたら、必要としてくれる人間を失ったモノは......誰にも知られず顧みられることもなく、ただそこに『在る』だけになったモノは......ただの、ゴミですよね......」

あるいは部長に「好きだからもっといろいろわかりあいたい」と言われるシーン。「好きなら...何もかも話せば全部受け入れて、そんなことで他人と......私と理解しあえるの?」

あとこんな独白も。「やっぱり、私の思った通り、なの...?夢は、人が実力を知るまでの妄想で、身の程を知れば打ち砕かれて、それで終わり、...なの...?」

あと、ぼくにとってのヒロインの桂坂さんが「デモンストレーション」としてのリスカではなくてマジのリスカをしたときの独白。「...手首じゃなくて、...ちゃんと自分と、たたかってくださいよ、先輩......」。

あるいは、稚拙な部誌が出来上がって「無駄だったんだ、こんなこともうやめよう、当分部も休みにしよう」と部長が言っているシーンのセリフ。「......いいえ。私たちが息の根止めた、みんなの夢、最後まで、見届けてあげなさい...」。

と、こういうやって見ていくと、彼女がわざわざ「夢つぶし」をしていく後ろに、なんだかすごい「飢え」を感じませんか? 「むかつくからつぶす」ってことじゃ、こんなせりふは出てこないでしょう。月並みな言い方だけど、彼女は、「つぶしてもつぶれない何か」を知るために、いろんなものをつぶしている、そういう風にも見えてくる。

「ほんとのことが知りたくて嘘っぱちの中旅に出る」と歌ったのはフリッパーズギターで、彼らもどこかにある「ほんとのこと」を求めて「こんなの全部うそっぱちだ!」といろんな「インチキ」を暴いていった。あるいは、しりあがり寿。しりあがり寿が2005年に出した自選短編集「のっぴょぴょ~」(ひどいタイトルだ...)のあとがきで素敵なことを言っている。これも引用する。

パロディーを通じて、恐怖を歴史をロマンを愛を、作品そのものではなく、その背後にある、人がバクゼンと信じてうたがわないものを笑いたかった。おおよそ、全てのものは裸の王様であると信じていた。この世に笑えないものなどない、とばかりに全てのモノを笑って笑って笑いつくしたかった。......でも今ふりかえってみると、結局ボクらがあんなに笑いにこだわったのは、「それでも笑えないなにか」をみつけるためだったかもしれない。ハダカでない王様。ウンチの山の中のダイヤモンド。本当に大切なモノをみつけるために、誰かとどこから笑おうとしても笑えないなにかを見つけるために、くだらないものをのけるために、手当たり次第に笑っていたんだと思う。

上に見たフリッパーズやしりあがり寿と似たような「飢え」を、ぼくは青木杏から感じ取ってしまう。彼女はただのトリックスターじゃない。「トリックスターが壊せない何か」をひたすらに探して、その中で自分も傷ついている、という人間に見える。「ほんとのことが知りたくて 嘘っぱちの中旅」をしている彼女も、嘘っぱちによって傷ついているように見える。

ね? 青木さんはただの「悪意の塊」じゃなくて、ある意味すごくさびしくて傷ついている「ひとりの人間」なんだって、わかるでしょ?

ぼくはきづきあきら(+サトウナンキ)の本は、「ヨイコノミライ」と「モン・スール(再編集版のやつ)」と「増殖フェティシズム(再録本のやつ)」と「いちごの学校」と「エビスさんとホテイさん(これはつぼみで連載中)」と「うそつきパラドクス(YAで連載中。単行本で読んでる)」しか読んでないのだけれど、こういう「ほんとのことが知りたくて嘘っぱちの中旅に出る」感覚は、形を変えながら一貫してきづき作品に流れているようにぼくは感じる(「ほんとの関係」とか、いろいろとね)。そして、結局「ホントのこと」ってのが最終的に見つかって「めでたしめでたし」とはならず、それでもどこかその救いのない中にこそ救いがある、的な。うまく言えないけど、そんな感じ。そしてこれは「THE END OF EVANGELION」以来、フィクションと現実の中でぼくがずーっと付きまとわれているテーマでもある。

なんかまとまりない感想になっちゃったな。まあ、それでも一応。そんな感じ。自分にホントに突き刺さる部分を避けての感想エントリでした。

きづきあきら+サトウナンキ「いちごの学校」の感想エントリです。ネタバレ含むので、ネタバレを嫌う人はここから下は読まないほうがいいと思います。

さて、感想みたいなものを書くのはだいぶん久々なので、まとまりなくぼろぼろと行きます。

まずは、これ多分怒っていいところだと思うんだけど、オビのコピーがひどい。いわく、「先生が好きで...興味があります。 元教師と元生徒+赤ちゃんのほんのり苦くて切ないラブストーリー」。おい、JAROに電話しなきゃいけないレベルだろこれ。うそ、大げさ、紛らわしいだよ。正しいコピーは「先生が好きで...興味があります。 だぁ?文化系オクテ男子のファンタジーをずたボロにしてやれ!」だと思うよマジで。まあぼくはきづきあきら+サトウナンキに限らず「甘いんだけど悪意がある」というの結構すきなので、いいんだけどさ。これオビにだまされて(?)買った人はショック受けるんじゃねーかな。

では内容について。

きづきあきらの書く女の子ってぼくすっごい好きなんだけど、この漫画のヒロインの「くるみ」がまず最高にかわいいんだよね。で、このかわいさってのが、まさに「文化系オクテ男子のファンタジー」なんですよ。つまり、文化系オクテ男子ってのは、かならず一回はこういう妄想をするんですね。「あー、俺ってば非コミュで非モテだけど、そんじょそこらのスポーツやっててさわやかーで頭の中からっぽな男子なんかよりよっぽど『人間的に深み』があるのになー。俺の『人間的な深み』を理解してくれて、当然そんなタイプの女の子だからあんまり『普通』の女の子じゃなくて、そんでぼくと同じ方向向いてて、でもぼくのほうが本読んでるからぼくをちょう慕ってくれるみたいな女の子があらわれないかなー」って。え? しない? うるせえ俺はしてたんだよ365日24時間! 「だいたいスポーツやってる=頭空っぽなどという貧困な発想力の持ち主が『人間的に深み』なんてあるわけない」? うるせえわかってるよ! だからファンタジーだ、妄想だって言ってるじゃねえかほっとけ! ...すみません取り乱しました。

で、このヒロインの「くるみ」がもう、そんな妄想ファンタジーをかなえてくれるったらないんですよ。主人公は元現国の教師(これも「文化系オクテ男子」の一種の欲望の表れである。文化系オクテ男子は「ぼくはたくさんちゃんと本を読んでいる」「ぼくはたくさんちゃんと映画を見ている」「ぼくはたくさんちゃんと音楽を聴いている」ってことが自意識を支えてたりするのだ)で、その主人公に「くるみ」は「人の命ってそんなに大事なんですか?」と質問するのだ。そのシーンがすばらしく最高に最高に最高。ちょっと長いけど引用します。

くるみ:先生/質問/人の生命(いのち)って、そんなに大事なものですか?/教えてください

主人公:突飛な質問だな/授業とも関係ない/答える義務はないが 大事だろ

くるみ:言い切りますね/この前の倫社のテストで/ある物語の抜粋と/「この物語を読んでどう思ったか答えよ」とだけ書かれた答案用紙が渡されました/生きのびるために人の道をはずれた行為をした男が/裁かれる話です/引用されたのは『ひかりごけ』っていう...

主人公:武田泰淳か

(中略)

主人公:なんて答えた

くるみ:「わからない」ということを/答案用紙の裏表びっしり使って書きました/とってもいい点でしたけど/テストの後もずっと考えて/そしたら少し答えがでてきたんです

(中略)

くるみ:あたしなんでか/この話を/先生に聞いてほしかった/なんでだろう

はいキタ! キタよこれ! 「ほんとのこと」が知りたくて悩む女の子。そしてその話を「ぼくにだけしてくれる」女の子! もう文化系オクテ男子の大好物じゃねーか。え? 大好物じゃない? うるせえ俺は大好物なんだよ!! 貧乳でショートカットってところもポイント高すぎる。だめ、死ぬ。

でね、この漫画って「先生と生徒だった」過去パートと、「結婚して子供がいる」日常パートが交互に描かれて進んでいくんだけど、「日常パート」でも、「先生、先生」って主人公を慕ってくれてるの、「くるみ」。なにこれかわいい死ぬ。

でもね、ぼくみたいな「自家中毒系男子」は、同時にこうも思ってしまうわけですよ。「でもこれって、要するに『居場所のない自分』が、『だれかの居場所』になることによって、自分を救いたい、っていう欲望だよな」。あるいは、「何も知らない女の子を支配したい、っていう欲望だよな」。と。もちろん、欲望そのものは悪いものではないし、前にも言ったけれどあらゆるコンテンツは「欲望充足メディア」としての側面を持つわけで、それ自体が悪いわけではないのだけれど、それにしてもやはりぼくはそれが「自分本位な欲望である」という事実を見ざるを得ない。なんと言ってもそれは、「相手を個人として認めなず、自分の所有物にしたい」欲望であり、「相手を自分の手の中においておくことで相手の可能性をすべて摘み取ってしまう」欲望なわけだ。

そして、この漫画では、最初に「キツくも幸せな家庭生活」とか「くるみ」のかわいさを見せ付けておきながら、この「自分本位な欲望」を容赦なく暴き立てるんですね。「高校生ヒロインの妊娠」という装置によって。妊娠によって教え子と付き合っている(しかも妊娠させた)ことがバレた主人公が、同僚の倫社の先生に「お叱りを覚悟で相談に」行ったときの倫社の先生の一言がキツい。キツすぎる。「大体が何の相談かわかっているか/一人の生徒の人生のあらゆる可能性を摘み取るか/一人の赤ん坊を殺すかだ」。妊娠という装置を使うことで、「中絶」という別の倫理的問題が浮かび上がってくる。そうすることによって、結局「文化系オクテ男子のファンタジー」が「相手の可能性をつぶすだけのものである」って事実が浮き彫りになってる。ほんと、きづきあきらって「キッツイ」作家です。

で、ある種「逃げ場」がなくなった「ファンタジー」は、カタルシスを求めるわけです。たとえば「懲戒免職」。「懲戒免職」になれば、そこで「ファンタジーを求めた自分への罰」が成就されてしまって、ある意味そこで「物語」にケリが着いてしまうんですね。ただ、きづきあきらはそうしない。「なんで私を罰しないんですか?」と主人公が校長に尋ねた際の校長は、「公表したら学校は信頼を失います。なんのために公表するんです? それはあなたの自己満足ではないですか?」という旨の発言をする。きづきあきらはこうやって徹底的に「ファンタジーの逃げ場」を無くしていきます。

結局、「責任を取る」という形での「ファンタジーの成就」を避けるストーリーによって、主人公は自分の欲望と終始向かい合わざるを得なくなっていくわけです(このへん、口の悪いぼくの友人は「女子高生を孕ませた教師がずーっと言い訳し続ける漫画」とか評しそうだな...)。

そして物語の終盤。結局「子供はぼくだけで育てることができる。きみがもし望むならきみは自由になっていい」(つまりファンタジーを「なかったことにする」)と相手に言う、という選択肢を主人公が選ぶわけですが、最終話にて、結局「くるみ」は主人公と一緒にいることを選んだ、という描写が出てきます(ここの絵と表現は漫画としてかなりよくできてる)。また、ここではじめて「くるみ」が主人公を「いちご君!」と名前で呼ぶのですが、そのあたり、「所有-被所有」の関係がようやく「対等」の関係になったような錯覚を呼ぶ効果を挙げていて、「うまいなあ」と思います。

で、これで終われば「文化系オクテ男子のファンタジーの行方」の罪みたいなものは「発展的に解消」されて「めでたしめでたし」ってことになるんだけど、そうは問屋が卸さないのがきづきあきらなわけで。

物語はもうちょっとだけ続いて、主人公と「くるみ」が子供とともに街を歩いているところで女子高生の集団とすれ違います。そしてすれ違うときに、「くるみ」は女子高生の集団を目で追い、振り返ったときには主人公が「何を考えているのかわからない目」と評した表情で主人公を見つめる(このときの表情も、「漫画でしかかけない表現」をしてて「うまいなー」と思う)。それでもひるみながら「くるみ」の手をとる主人公。という形で終わるんです。

結局最後には、「お前ら、女の子所有したいっていうファンタジー持ってるけどな、結局相手は『他人』で、『理解できない』存在なんだぞ」っていう特大の毒と刺をぶっ刺されるわけですね。しかも結局「一緒にいる」以上、常に主人公は自分の「ファンタジー」の暴力性と向き合い続けることになる。ある意味でこの作品、「文化系オクテ男子のファンタジー」を装って文化系オクテ男子を取り込んでおいて、「文化系オクテ男子のファンタジー」を粉砕するっていう、おそろしい漫画です(このへん、「エヴァ」(TVシリーズ)に似てる。あれもオタクを取り込んでおきながらオタクのファンタジーを粉砕するおそろしいアニメだったからな...)。

でもね、これ、ぼくは、ある種の救いがあるハッピーエンドだと思うんだ。エヴァもそうだったけど、結局、他人とのコミュニケーションってのは「わかんない」し「わかってもらえない」の連続だと思うんだよね。それでも、「手を差し出す」ってこと。そして、何がすばらしいかって、「キツくも幸せな家庭生活」ってのも、「甘くも幸せなふたりの生活」ってのも、きちんと愛情を持って書かれてるところ。

文化系オクテ男子のファンタジーを粉砕しつつも、「ひとと一緒にいるってことは、そんなに悪いことばかりじゃないよ」っていう面もしっかり描かれてる。ほんと傑作だと思った。興味を持ったひとはぜひ読んでみてください

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都内在住プログラマ。男子。

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