ものすごくお久しぶりのブログです。
この前友人たちとお酒を飲んでいるときに、ある女性が空いたグラスを片づけてくれた。そのときにぼくは「ありがとう、気がきくね」と言ったのだけれど、そしたら、別の女性にたしなめられて、いわく「『気がきくね』ってのは失礼なんじゃないか」と。詳しく聞いてみると、つまり、女性は気がきくべきだ(=それは女性の役割だ)という道徳が存在する以上、発言者(つまりこのばあいはぼく)にそのつもりがなくても、女性に向かって「気がきくね」と発言することには「女性はそうあるべきだね、うんうん」というメッセージが含まれてしまう、ということだった。
一応ぼくの名誉のために言っておくと、ぼくは結構飲み会で自分もサラダ取り分けたりするほうだと思うし、そういう種々のことを女性がやるべきだとは全く思っていないけれど、この指摘には「なるほどなぁ」と思って、単純に反省したのでした。
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で、そのあとのお話。「『気がきくね』のせいで女性同士で争い始めるんですよ」とさらに彼女は言っていたのだけれど、これもなかなか面白い話で、早い話が「ジェンダー・ロール」が生まれると、ひとは誰が一番そのジェンダー・ロールをうまくこなすことができるか、という競争を始める、という話でした。
これもなるほどなあ、という感じで、こういう光景、たしかによく見かけるんだよな。たとえば、「デートをうまくリードするのが男の役割」と言われれば、みんな頑張っちゃう。あるいは、「ミルク代、しっかり稼がないとね」って、「稼ぎ競争」に自ら参加していく男性たち。ぼくは自分が男性なのでこういう例になっちゃうけど、女性たちの間ではそれが「『気がきくね』を言ってもらう競争」になる、みたいなことなんだろうな。
もちろん、そういうのに自覚的だったりそれがいやだってひとはその競争から「降り」たり、ルールそのものに異を唱えたりすることもできるんだけど、降りることによってやっぱり不利益をこうむるのは自分なんだよね。そういう意味では、「そんな競争したくない!」っていう人も否応なくその競争に巻き込まれていく。別の言い方をすれば、たとえば「『気がきくね』競争」ではなくて「稼ぎ競争」に参加したい女性や、「稼ぎ競争」ではなくて「家庭内がどれだけ平和か競争」に参加したい男性さえも、「おまえは男だから稼ぎ競争ね」とか「おまえは女だから家庭競争ね」というように、強制的に参加する競争を決めつけられちゃう。それって、やっぱりちょっと不幸ですよね。
あるいは、もっと現実的でへヴィーな話をすると、「ちゃんと稼ぎ競争に参加したい!」って思ってる女性も、「育休切り」という理不尽にあったりする。「ちゃんと育児参加したい!」っていう男性も、現実的に育休が取れない。そういうのって、つまり「お前は女だからこの競争には参加しちゃだめ」「お前は男だからこの競争に参加しちゃだめ」っていうのが現実的な拘束力を持って形になったものだよね。
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そうなると、どうやったらそういう不幸な状態を止められるか、って話になると思うんだけど、ここでよくお題目として唱えられるのが「男女平等」。YES! 平等! 素晴らしい。男女が平等に生きられることそのものに反対するようなひとはさすがに居ないでしょう。誰も批判できない素晴らしい題目です。
でも、ぼくは思うのだけれど、たとえば「男性も女性並みに」とか「女性も男性並みに」というのは、ちょっと違うのじゃないだろうか。つまり、男性と女性を「同質」にしてしまうのは本当に「平等」なのか? という視点。
たまに「男性には男性の得意なことがあって女性には女性の得意なことがあるんだから」みたいなことを言うひとがいるけれど、そういうレベルのことをぼくは言っているのではなくて、そもそも問題の起源である「ジェンダー・ロール(性役割)」がどこから生まれているのか? ということ。
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つまり、「女性は○○(べし)」とか「男性は○○(べし)」という発想は、どこから生まれているかといえば、それはつまり「同質性」からですよね。
つまり、ほんとうなら女性ひとひとりひとりの望みや得意なことは違うのに、「家庭に入るのが女の幸せ」とか、「家庭に向いているのは男よりも女」とか言っちゃうのは、本当は多様なはずの個々人を同質な「女性」として見てしまうことで生まれている。
同じようなことが男性にも言えて、ほんとうなら個人個人の望みや能力は違うのに、「しっかり働いてお金を作るのが男の甲斐性」とか言われちゃう。これも、本当は多様なはずの個々人を同質な「男性」として扱う発想だよね。
本来多様なはずのものを「同質に」することが「ある集団ごとの役割」を生むわけだ。だから、男性と女性の差異をなくして「男女の同質性」を目指す方向は実は、新しい「役割」を生むだけなんだよね、きっと。つまり、たとえば、こういうこと。-----「仕事も育児も両方きちんとこなすのが『正しい』」。
ぼく自身は仕事と育児を両方こなす生き方ってのは素敵なことだと思うし、ぼくもそうありたいな、と思うけど、たとえば今の性規範で「気が利く女性」が「正しい女性」とされてしまう、裏を返せば「気が利かない女性」が非難の対象となるのと同じように、今度は「仕事と育児を両方できない人間」が非難の対象になっちゃうよね。たとえば、「仕事大好きだから仕事バリバリやりたいひと」と「家庭大好きで家庭のこと全部やりたいひと」の間にきちんとしたパートナーシップのある幸せなカップルがいたとき、このカップルは批判の対象になってしまうんじゃないかな。それって、「正しい役割を果たさないと非難される」今と何が違うんだろう?
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だからぼくは思うのだけれど、たぶん平等を実現するときには、「同質にすること」を目標にするんじゃなくて、「多様性を認めること」「異質を受け入れること」を目標にしたほうがいいんじゃいかな。つまり、今男女間に「仕事のしやすさ」に差があるのは、「男女が十分の同質になっていないから」と考えるのではなくて、「男性が同質とみなされているから」「女性が同質とみなされているから」と考えること。
「家庭に入りたい男性」がいてもいいし、「家庭も仕事もバランスよくやりたい男性」がいてもいいし、「仕事をバリバリやりたい男性」がいてもいい。同時に、「家庭に入りたい女性」がいてもいいし、「家庭も仕事もバランス良くやりたい女性」がいてもいいし、「仕事をバリバリやりたい女性」がいてもいい。そうやって「男性の同質性」と「女性の同質性」を解体することによって、男性/女性の区別が意味をなさなくなっていく。そうしたら結果的に、男女間の平等は生まれるんじゃないか。もちろん、それを実現するためには、多様な生き方を許容する社会のデザインになってなければいけないわけで、それを実現するためにどうするか、という大きな大きな問題は残るのだけれど。ただ、考え方として。
もし、「○○として正しい生き方」というのがなくなり、多様な生き方が許容されるようになった時には、「家庭に入ってたい」ひとは「外で稼いでくれるひと」とパートナーシップを結べばいいし、「バランスよくやりたい」ひとは同じくバランスよくやりたいひととパートナーシップを結んで課題をシェアすればいいし、っていう風通しのいい社会になるんじゃないだろうか。ぼくは、そんな世界で家族とともに暮らせたら幸せだし、そんな世界で働けたら幸せだなー、と思う。
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最後にちょっと本筋と関係ないけど言っておきたいことを何点か。
ぼくは今回便宜上家庭と仕事を二分したけれど、これも、じつはそんなに自明な区別じゃないんだよね。あと、家庭を「前提」に話してるけど、もちろん家庭を前提としない生活という多様性も認められていいはずだし。
あと、こうやって社会の仕組みについて発言すると、「社会のせいにしてないで自分のできることやったら?」って言うひともいるけど、「今の仕組み、よくないよね、こうしたほうがいいよね」と言うことと「それでもすぐには変わらないこの仕組みの中で自分なりに自分が幸せになれるようにベストを尽くす」ってのは両立するし、ぼくはぼくなりに今の社会の中で自分が幸せになれるように頑張ってるので大きなお世話です。
「すぐには変わらない大きな仕組みには文句を言わずそれをア・プリオリな環境として生きていく」ってのは「大人」じゃなくて「奴隷根性」って言うんだよ。ほんとに大人ならば、「社会を作る」ほうに回ろうよ。一緒に。それはそんなに大それたことじゃなくて、「こうなったらいいよね」って発言することも十分に「社会的」な行為だと思うんだ。
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