2010年7月アーカイブ

だいぶん放置したのでリハビリを兼ねて別の話題を。

先日TwitterのTLで「長い道」という漫画が話題になっていた。これは「この世界の片隅で」などを書いたこうの史代の作品で、恐ろしいレベルのダメ人間の夫との生活を描いた漫画。今日はこの漫画の素晴らしさについて書こうと思う。Twitterで書いたことの焼き直しに近いけれど。

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小沢健二は、フリッパーズギターの歌詞で「分かり合えやしないってことだけを分かり合うのさ」と歌った。あるいは、村上春樹はその著作の中で、「理解というのは常に誤解の総体にすぎない」と書いた。あるいは、スガシカオは「君の涙の色はきっと鈍い僕には見えやしない」と歌った。

ぼくたちは、いつだってだれかを完全に理解することはできないし、だからぼくたちも絶対にだれかに理解されることもない。これはなんだかとても救いのないように思える話だけれど、端的に事実だ。仮に理解できた気になったとしても、理想的なコミュニケーションができるとは限らない。「いつでもぼくの舌は空回りして 言わなくていいことばかりが溢れ出す」し、善意は回り回ってすれ違ってだれかを決定的に傷つける。あるいは、それが「他者」の定義上の要請だとさえいえる。すべてを知ることができて、完璧なコミュニケーションが成立したら、それはすでに「他者」ですらなくなってしまう。

ひととひととは分かり合えない、という、その諦念から、他者への恐怖に飲み込まれてしまうこともあるだろう。たとえばTVシリーズエヴァンゲリオンの、人類補完計画のように。欠けた人の心を補完して、個人という単位をなくして、みんなを溶け合わせてしまう。そこにはもはや他者が存在しない。だから他者への恐怖も存在しない。心の壁、ATフィールドの存在しない世界。自我境界線の存在しない世界。

あるいは、その諦念から、空虚なポジティブ思考、思考停止へと至ることもあるだろう。巷に溢れている薄っぺらい愛の歌。恋の歌。ドラマ、小説。自己啓発本。そこには「がんばれば愛は実るよ!分かり合えるよ!コミュニケーションは成功するよ!」という無根拠で空寒いエールが溢れている。まあ、それがこの絶望や諦念の「処方箋」として効くのであれば、そういう薄っぺらい処方箋にも存在意義があるのかもしれない(が、他者が他者である以上、その処方箋は「詐欺」であり続けるし、後で見るようにその処方箋はとても脆弱なものだけれど)。

でも、ひととひととは分かり合えない、という諦念から、絶望の中でしか生まれない希望みたいなものを見出すこともできる。TVシリーズエヴァンゲリオンの集大成とも言えるEoEでシンジくんが辿り着いたのは、そういう場所だった。「好きだという言葉とともにある、人と人とは分かり合えるかもしれない、という希望」を前にして、「でもそれはまやかしなんだ。勝手な思い込みなんだ」と否定し、それでもアクロバティックにそれを肯定する。「ただ、また会いたいと思ったんだ」という言葉とともに。「また他人の恐怖が始まるんだよ」と言われてもなお。まやかしだと知りながら、嘘だと知りながら、敢えてそれを肯定するような気持ち。それは多分シンジくんが言っているように、「祈りみたいなもの」なのだと思う。

あるいは、小沢が歌う「流れ星 探すことにしよう もう子供じゃないならね」ということば。流れ星なんていう、あやふやであいまいでいつ流れるかわからないようなものを探すなんて、むしろ子供っぽい行為に思えるかもしれない。だけど、ぼくたちは、人間関係や生活というのが、とても脆弱なものであることを今や知っている。子供はそこでふてくされてしまう。でも、「ふてくされてばかりの10代を過ぎ」、もう子供じゃない今は、あいまいであやふやで脆弱な流れ星を、あえて探すことにしよう。そういう、あやふやなものにあやふやなままコミットするような強さ。そういえば、流れ星も「祈り」を捧げる対象だ。

そういう、「本当の恋」だとか、「完璧なコミュニケーション」はあり得ないという諦念とともに生まれるアクロバティックな「祈り」は、単純で後ろ盾のない、空虚なポジティブ思考とも違う。「ひととひととは分かり合えるはず」とか、「愛があれば大丈夫」みたいな、空虚なポジティブさは、ひとたびそれが虚であることに晒されたら脆くも崩れる性質のものだ。でも、嘘を嘘として、虚を虚として受け入れた上での祈りというのは、それが虚であることによって、むしろ強度を増すような性質のものだ。だって、それが虚であるということこそが祈りの源泉なのだから。

でも、そういう祈りみたいなものは、決して簡単に生まれるものではない。だって、嘘を嘘だと知りながらどうしてそれを信じることができるだろう。理性が要請するのは、「それが嘘、虚の類のものである」という認識であって、決してそこにコミットすることではない。嘘を嘘と知りながら嘘にコミットする、なんてことは、とてつもなく難しいことだ。そんなアクロバティックな祈りを維持するためには、とてつもない「強い気持ち、強い愛」が必要になってくる。

でも、ぼくは思うのだけれど、それは多分、ぼくたちがどうしようもなく誰かを好きになることだとか、どうしようもなく芸術のようなものを求めてしまう気持ちとか、そういったものと同質なものなのではないだろうか。

芸術なんて、生きていくうえで何の役にも立たない。あるいは、誰かを好きになったって、その誰かのことは理解できないし、誰かもぼくのことを理解してくれない。それなのに、ぼくたちはどうしようもなく芸術のようなものを求めてしまうし、どうしようもなくひとを好きになってしまう。芸術なんてあやふやで理性の対象外のものだし、理解し合えない他者を好きになるなんて、「ほとんど精神疾患のようなもの」だ。愛は地球どころかだれひとり救わないし救えない。それでもぼくたちはどうしようもなくそれを求めてしまう。

そして、そういった気持ちは、固い決意のような硬く静的な感情ではなくて、どうしようもなく続いて行く日々の中で、細かい機微の中で、生活にまみれた世界の中で、しなやかに動的に生まれ出ては消えて行くだけの気持ちなんじゃないだろうか。

それは、ただ前だけを向くポジティブ思考ではなく、後ろを向いたり、立ち止まったり、悲観にくれたり、疲れ切ったりするなかでギリギリのラインで生まれてくる、しなやかな強さなんじゃないだろうか。

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と、長々と話してきたそんな強さを、こんな無粋な言葉ではなく、救いのない日々の中で、ゆらゆらしながらもたしかに持ち続けるふたりの「偽物のおかしな恋」(単行本あとがきより)が描かれた素晴らしい漫画がこうの史代の「長い道」です。みんな読もう! 絶対に損はしないよ! そして、ぼくはこんな読み方をしたけれど、この漫画はもっともっといろんな読み方ができる懐の広さを持っているので、読む時にはできればぼくの記事なんて忘れて、誰にも何にも邪魔されない素晴らしい読書体験をしてください。

ぼくもいつか、こんな歌が歌えるようになりたい。

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都内在住プログラマ。男子。

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